戦国時代に奴隷は存在した?戦利品として人間を売っていた大名達【戦国の闇】

2019年9月10日


 

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乱取りシーン(戦国時代)

 

戦国時代は、英雄豪傑(えいゆうごうけつ)が無数に登場してくる時代ですが、同時に、殺人や、放火、略奪(りゃくだつ)、暴行のような戦場犯罪が多発した時代でもあります。

 

日本戦国時代の鎧

 

それは、統一された政府がない事による戦乱の隙間(すきま)で多く発生した事ですが、この戦国の闇の中には人身売買も存在し、それが一つのビジネスになっていました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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義将に似合わない上杉謙信の人身売買

暗号を使う上杉謙信

 

戦国大名が自分が落城させた城の人間を捕まえて売り飛ばしていた。そのショッキングな事実は、常陸国(ひたちのくに)の寺院の年代記である「別本和光院和漢合運(べっぽんわこういんわかんごううん)」に出てきます。

 

小田開城、景虎(かげとら)より御意をもって春中人を売買事二十銭、三十二(銭)程、致し候

 

長尾景虎時代の上杉謙信が、常陸の小田氏治の城を陥落させた時に城内にいた人間を二十文から三十文、現在価格で二千から三千円で売り飛ばしていたという記録が残っているのです。

 

餓えた農民(水滸伝)

 

これらの事例は、上杉謙信ばかりではなく、武田、伊達、島津のような名だたる戦国大名は全て、征服した土地の住民を捕まえて、二束三文の値段で売り飛ばしていました。

 

雑兵たちの小遣い稼ぎだった人身売買

餓死する農民 日本史ver

 

中世史研究家の渡邊大門(わたなべだいもん)氏の研究によると、戦国時代の女性の人身売買は傾城屋(けいせいや)、すなわち遊女屋(ゆうじょや)にルーツがあるようで、すでに室町時代には、規模の大きな遊女屋が登場しており、財政難の室町幕府が傾城の局という役所を設けて税を取っていた記録があるようです。この遊女の供給源として戦国時代の人身売買が存在したと考えられているのです。

宋銭 お金と紙幣

 

戦国時代の足軽(あしがる)は、不足する給与の代替として、敵地での略奪が認められその中で住民を捕らえて、人買いに売り飛ばすのが貴重な現金収入でした。捕らえられた住民は女性は遊女屋に売られ、老人と子供と男は、労働力が不足している村に奴隷として売られていきました。

 

日本史 兵糧攻め 村人

 

しかし、そこでも市場の原理は働きます。二束三文で買い上げた奴隷とはいえ、人買いはそれ以上の値で売り飛ばさないと利益を得る事が出来ないので、捕らえられた人々は、商談が成立しない限りどこまでも歩かされ国境いを超える事も珍しくありませんでした。さらには、転売の対象にもなり、何人もの人買いの手を経て、はるかに故郷を離れた土地にまで売られる人もいました。

 

はじめての戦国時代

 

海外にまで売られた日本人

セミナリオ(教会)

 

戦国時代の悪弊(あくへい)として広く行われた奴隷狩りの被害は日本だけに留まりません。16世紀は、ポルトガルやイスパニア船が世界の港に出現したグローバル期でしたが、日本人奴隷は、人買いを通して欧州にも売られていたのです。これは、天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)も海外で目撃していた事が記録されています。

 

バテレン追放令を発令した豊臣秀吉

 

1587年、天下人豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、この状態に危機感を持ちポルトガル商人による日本人の人身売買を禁止しました。同時に秀吉は、全国の諸大名にも人身売買を禁止する旨を命じています。天下人として自国民を奴隷として海外に売る事は許さないという秀吉の強い意志が感じられる措置です。

 

豊臣秀吉 戦国時代2

 

しかし、それでも人身売買は簡単には無くなりませんでした。ポルトガル商人が直接に日本人を集めたりしなくても、国内に人買いがいる以上、人身売買が無くなる事は無かったのです。

 

人身売買禁止令は、その後も度々発令され、江戸時代に入った1626年にも禁止令が出ています。労働力が必要という需要があり、人間を(さら)って売る事に利益が上るという供給が存在する以上、この悪弊を根絶するのは難しいものでした。

 

結局、人身売買が無くなるのは、鎖国により自由交易が制限された事と戦争が終わって人口が増え、労働力不足が解消されて人買いが商売として成り立たなくなるまで待つしかなかったのです。

 

身代わりに殺される悲しい解死人

疫病が蔓延している村と民人

 

人身売買とは違いますが、戦国時代には紛争の生贄(いけにえ)として処刑される解死人(げしにん)という悲しい存在もありました。戦国時代、村と村は水争いなどで武器を取り、大きな紛争に至る事がありました。1592年、摂津国(せっつのくに)鳴尾(なるお)村と河原林(かわらばやし)村の間で用水を巡る争いがおき、激しい合戦に発展しました。

 

明国制圧の野望を抱く豊臣秀吉

 

すでに、豊臣秀吉により天下は統一されていたので、勝手な事をした両村に対し秀吉は激怒し、責任者を呼び出して磔刑(たくけい)に処しています。ところが、この時に村が差し出したのは庄屋や名主ではなく、こんな時の為に村が養っていた乞食(こじき)だったというのです。

 

このような存在を解死人と言い、村々は乞食や流れ者のような、正規の村人ではない存在を敢えて何名か養っておいて、村で大事が起きた時に、責任者の代わりに差し出して生贄にしたのです。

 

 

気持ちが暗くなるような悲惨な話ですが、ただ、村としても自分達の為に犠牲(ぎせい)になる解死人には一定の敬意を示し前述の鳴尾村と河原林村のケースでは、解死人の一人が「自分が処刑されるかわりに、どうか自分の子孫の地位を引き上げて欲しい」と頼んだのを聞き入れたと言われています。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

戦国時代の闇である人身売買について書いてみました。実際には、戦国大名ばかりではなく、鎌倉末から戦国にかけてアジアの海を跳梁(ちょうりょう)した倭寇(わこう)も人身売買が重要なビジネスでした。

 

内容に納得がいかないkawauso様

 

牛馬よりも力はないものの、自分で考えて動く事ができる人間は、労働力が不足した地域の人間にとっては十分な商品価値を持つ重要な存在だったのです。これこそ、人買いが存在できた大きな理由でした。

 

そこに需要と供給の関係が生まれ、目先の利益を求めて多くの悲劇が生じたとすると、なんともやりきれない話ですね。

 

参考文献:最新研究が教えてくれる あなたの知らない戦国史

 

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