2009年12月、中国河南省安陽市にて後漢時代の王侯の墓が出土しこれが曹操の墓ではないかと言われました。
現在でも、曹操の墓である可能性が高いとされているこちらの墓ですが、一体どのような理由で曹操の墓だと分るのでしょうか?
今回は、疑り深い人もへーっと思う曹操の墓についてのトリビアを紹介します。
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副葬品についていたタグ
曹操の墓は、河南省安陽市西高穴村という人口2000人にも満たない小村で発見されました。
それでも、この墓は盗掘の被害を免れず、ばかりか発掘の最中ですら盗掘の心配があったと言われています。
その為に、墓の副葬品は大半が盗まれていましたが、それでも、墓の主を特定する貴重な副葬品が発見されました。
それが、魏武王常所用挌虎大戟と書かれた石碑でした。
これは魏の武王が日頃使用していた虎をも倒す戟という意味であり、元々、墓にあった戟に添えられていたタグだったようです。
魏の武王と言えば、それは曹操を意味する言葉であり、この墓の主が曹操だと特定される有力な証拠になったのです。
それ以外にも、魏武王常所用慰項石と刻まれた石の枕も発掘されました。
埋葬された遺骨
また、この墳墓からは、人間の頭蓋骨が3つ発見されました。
二つは女性の骨ですが、もう一つは男性の頭蓋骨であり、六十代の男性の骨であると鑑定されています。
史実の曹操は六十六歳で亡くなっているので、頭蓋骨の年代と大体、一致しているのです。
墳墓の形式
墳墓は、平面が甲字形をした多室磚室墓で形はほぼ長方形です。
東西の長さは18メートル、東側の最大幅は22メートルで面積は440平方メートルあり、39.5メートルの長さの墓を降りるスロープを持っています。
部屋は前室と後室で、それぞれが、南側と北側に個室を持っていて合計すると六部屋が存在します。
これは、後漢王朝の王侯の墓である事はほぼ間違いないとされています。
つまり、墳墓の形式から考えて魏王曹操の墓であってもおかしくないという事なのです。
また、墓が発見された西高穴村は伝承や文献で曹操の墓があると記録されたポイントから、それほど離れていない場所でもあります。
一方で根強い反論も・・
しかし、墳墓が曹操の墓かも知れないと報道されるとすぐに反論が出ました。
例えば、曹操の副葬品とされた魏武王常所用挌虎大戟の石碑ですが、後漢の時代には権力者が股肱の臣に対して、
自分の愛用品を下賜する習慣がありそこから照らすと、曹操の死の四か月後に、死んだ夏侯惇の墓ではないかと考えられているのです。
当時は陪葬と言い、亡くなった王の寵臣を墓を守るように近くに埋葬する習慣があり、発見された墳墓が曹操の側近であった
夏侯惇の可能性もあるようです。
仮に夏侯惇の墓だったとしても、陪葬墓だとすると、この墓の周辺に本当の曹操の墓がある可能性が高まり、それはそれで楽しみです。
それでも墳墓が曹操の墓である根拠
古典中国学の研究者で、三国志学会の事務総長でもある渡邊義浩氏は、それでも、この墳墓が曹操の墓である可能性は高いと考えています。
この大きな理由は墳墓の出土品が、鉄や陶器や石、そして、金銀製の装飾品の欠片くらいで玉製品が出てこない点です。
特に玉衣が出土していない事に渡邊氏は注目しています。
玉衣とは文字の通り、玉片を貴金属の糸で綴り合せてつくる衣で、その中で黄金の糸で編んだ玉衣を金縷玉衣と言います。
こちらは、死者の肉体が永遠に保たれる事を願って造られています。
現存する玉衣の一つである中山靖王劉勝の金縷玉衣は、2498枚の玉片で構成され金糸や銀糸で編まれており、金の糸だけで1キロもあります。
曹操は、もちろん金縷玉衣で全身を包まれる資格のある人であり、もし、曹操の遺体が金縷玉衣で包まれていたなら、
盗掘にあった際に玉片一枚残さずに、これが盗まれる事は考えられません。
なにしろ盗掘は暗闇で、限られた光源の下で行われるわけですから、崩れてしまった玉片の一枚に至るまで回収して逃げるのは
至難の業だと考えられるからです。
であれば、曹操の墓とおぼしき墳墓には最初から玉衣はなかったそう考えるのが自然ではないでしょうか?
曹操は「自分を葬る時には、金銀財宝を入れずに質素にするように」と遺言していて、これは薄葬令と言われています。
さらに曹操は、「私を平服で葬れ」と言っていて金縷玉衣で遺体を包まれる事を拒否しているので、
これが実行されていれば、曹操の墳墓からは玉が全く出土しないのも頷けます。
2009年に発見された墳墓からは、玉片が発見されないので、ここが曹操の墳墓である可能性は高いのです。
曹操が墓に込めたメッセージ
では、曹操はどうして自分を質素に葬るように命じたのでしょうか?
表向きは、戦時であり無駄遣いを禁止する為と説明されていますが、前述の渡邊氏は、そこに曹操の当時の社会に対する挑戦があると見ています。
曹操が生きた時代に中国世界を覆っていたのは儒教の価値観でした。
儒教の最高の徳目は孝であり、それは先祖を葬ったり、祀るのにいかに多額のお金をかけるかで現わされていました。
当時は、お金をかけ先祖を祀る人は親孝行な人で能力が高いとされたのです。
当時から、それには虚礼という批判がありましたが、そうは言われつつも、権勢家は墳墓に多額の金銭を掛けていました。
曹操のライバルである袁紹は、通常の倍である六年間も喪に服していて、中には二十年も服喪した人もいます。
親孝行は結構ですがそれが真心からではなく、そうした方が登用されやすく出世に有利だからという動機も多くありました。
実際、すでに発見された曹操一族の墓から出土した曹操の祖父曹騰とおぼしき遺体は銀縷玉衣に全身が覆われていました。
しかし、曹操は生涯を通して、儒教的親孝行=優秀な人物という価値観に反発し、そんな外面の虚名ではなく、
実際の実務能力で人材を登用していました。
曹操の薄葬令は、そんな儒教的虚礼に対して中指を立てた最後のメッセージ、このようにも考えられるわけですね。
三国志ライターkawausoの独り言
実際のところ、曹操の墓については、まだ考古学的な確証がなく100%曹操の墓、曹操高陵であると断定はできないそうです。
発掘から10年が経過していても、まだ決定されないのはもどかしいですが、本当の真実は全ての異論が反駁された末に決定される事でしょう。
参考文献:カラー版史実としての三国志 宝島社新書
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