太平道は後漢(25年~220年)末期に中国で流行した道教の一派です。張角がこの教えを発展させて、中平元年(184年)に「黄巾の乱」を起こしました。
ところで太平道とは、どんな教えであり、一体どの階層の人々に支持されていたのでしょうか?
今回は黄巾の乱で利用された太平道について紹介します。
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于吉から張角へ
太平道の創始者は張角ではありません。現在確認がとれる太平道の創始者は于吉とされています。于吉は小説『三国志演義』で孫策により殺害されて彼を呪い殺した人物として有名です。史実の于吉は医術・占術に長けた人物でした。このような人物を「方士」と呼びます。
史料によると于吉は『太平清領書』という不思議な書物を手に入れて、それを民衆に広めたそうです。残念ながら書物が散佚しており、中身にどんなことが記されていたのか分かりません。
『太平清領書』は後漢第8代皇帝順帝の時に朝廷に献上されますが、中身を検閲した朝廷の人たちから拒否されます。その後、11代皇帝桓帝の時に再び献上されますが再び良い評価は受けません。
その後どういう経緯なのかは不明ですが、張角が『太平清領書』を布教します。于吉と張角はどんな繋がりなのか現在も分かっていません。
どんな布教をしていたのか?
張角は自らを「大賢良師」と自称します。張角は病人に対して今まで行った悪行を告白させて、それから符水を飲ませます。「符水」というのはお札を焼いた灰を水に混ぜたものです。張角はそれを病人に飲ませて治療していました。飲んだ人々の病気は次々と良くなっていきます。
現代の通販でこんなものを売りつけていたら、効果ゼロという苦情が視聴者から殺到するでしょう。しかし、この時代は効果が無い時は信仰心が足りないということで済ませていました。張角はこんなやり方で、お布施を集めたりして教団を大きくしました。
どんな人々に支持されていたのか?
ところで太平道はどんな人々が主流で運営していたのでしょうか?黄巾の乱は農民反乱と言われているので、支持母体は農民と見られがちです。だが黄巾の乱で戦った張角・張宝・張梁の3兄弟を筆頭に、波才・彭脱・卜已・張曼成・趙弘・韓忠・孫夏・馬相・馬元義の出身階層は分かっていません。
ただし、黄巾軍の主流である彼らが朝廷に敗北した後に、のれん分けのように活動を開始した黒山賊指導者層の張飛燕(後の張燕)・張牛角・李大目・張白騎たちは本名ではなくあだ名です。
このことから、黄巾の乱の指導者層は知識階級であり、彼らの壊滅・脱落以降に思想が庶民に浸透していき黒山賊・青洲黄巾軍の時代になり農民反乱の集団になったと言われています。
三国志ライター 晃の独り言 児童向けマンガに騙された
以上が張角が教えていた太平道と支持層に関しての解説でした。筆者は小学校4年生の時に『学習漫画 中国の歴史 人物事典』(集英社 1988年)を読みました。
卒業までに筆者は5回借りましたが、筆者以外は誰も借りなかったものでした。それを読んだ時に張角を初めて知りました。
その中では張角は病人を救済していた善人として描かれており、反乱を起こしたのは苦しむ民を見捨てることが出来なかったからという設定になっていました。当時、小学生だった筆者はその部分を読んだ時に「スゲー人だ。なんでこんな良い人が途中で死んだのだろうか?この人に天下をとって欲しかった」と悔しい思いをしました。
中学時代に横山光輝氏の『三国志』、KOEIの『真・三国無双』シリーズ、大学時代に正史『三国志』を勉強してから全く人物像が違っていることが分かりました。
「くっそ、だまされた!あのころの純粋な少年の気持ちを返して欲しい!」と恥ずかしい思いがしました。
※参考文献
・松崎つね子「黄巾の乱の政治的側面:主として宦官との政治的側面から見て」(『東洋史研究』32-4 1974年)
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