黄忠がすごいのは民衆からの愛され方がすごかったから?正史に書いてないキャラ属性の増加っぷりに嫉妬する

2019年10月11日


 

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周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

日本で出回っている三国志のゲームや漫画や小説は、だいたい『三国志演義』を原作としています。その『三国志演義』は、かなり後世になってから、民間伝承やフィクションも多彩に盛り込み、読んで面白い娯楽小説として編集されてしまったもの。

 

正史三国志 vs 三国志演義で揉める現代人

 

それゆえ、『三国志演義』の世界観に慣れている人が、本来の歴史書である『正史三国志』のほうをいきなり読むと、いろいろとびっくりすることがあると思います。『演義』と『正史』との違いといえばいろいろなものがありますが、その中でも、五虎将軍の一人黄忠の描かれ方は、最大級のびっくりポイントではないでしょうか?

 

というのも、黄忠(こうちゅう)のキャラクターとして知られている要素のほとんどが、『正史』のほうには入っていないのです!

 

自称・皇帝
当記事は、
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関連記事:夷陵の戦いにおける黄忠の壮絶な最期を考察【三国志演義】

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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おどろき!黄忠は別に老将軍でも弓矢使いでもなければ、夷陵の戦いで死んでもいない?!

水滸伝って何? 書類や本

 

『正史三国志』の「蜀書」には、ずばり「黄忠伝」という章があります。関羽伝・張飛伝・馬超伝と、趙雲伝とに挟まれた章となっており、まさに「五虎将軍列伝」の中盤という位置づけです。

 

五虎大将軍の黄忠

 

ところが黄忠ファンの人を驚かせることには、正史の「黄忠伝」はやけに短い。

 

しかも、要点だけを抜き出すと、

 

・黄忠は劉表(りゅうひょう)のもとにいて、長沙を守っていた

曹操(そうそう)の荊州攻略後は、韓玄(かんげん)の統制下におかれ、引き続き長沙を守る将軍として働いていた

・劉備が荊州を取った際にその臣下となり、蜀入りに従って活躍した

・西暦でいう219年、定軍山の戦いにて夏侯淵(かこうえん)を打ち破った

・その翌年逝去した

と、まあ、このような感じ。

 

黄忠

 

黄忠といえばイメージとして定着しているはずの「老将軍」ということを示す話は特に入っていません。弓矢の達人であったという話も入っていません。厳顔との老将軍名コンビ結成、という胸躍る展開もなければ、韓玄の配下だった時の、関羽との一騎打ちという名場面もない。

 

それどころか黄忠を巡るエピソードのハイライトともいえる「夷陵の戦いでの戦死」すら、正史には入っていないのです。

いったいこのギャップはどういうことなのでしょうか?

 



黄忠のイメージが「老将軍」になったのは関羽のせい?

黄忠

 

そもそも「老いてなお盛んな人」なんて記述が一切ない『正史』の「黄忠伝」から、何がどこを通過して「老将軍」イメージができあがったのでしょうか?

唯一『正史』の中でヒントになりそうなのは、「費詩伝」というとんでもなくマイナーな章(費詩には悪いですが)の中の、わずかな記述です。

 

費詩(ひし
)
と話をしている時の関羽のセリフとして、「大の男である私が、黄忠のような老兵と一緒の身分にされてたまるか」というような悪口を(黄忠不在の場で)ひとことだけ、しゃべっているのです。

 

おそらくこの関羽の悪口から「黄忠=老人」というイメージが始まったのではないか、と推測することができます。もっともこの「老兵」という悪口が「年寄りの爺さんだ」という意味のことを言っているという保証もなく、そもそもこれを言っている時期の関羽もいい年齢なわけなので、真意は不明な発言です。

 

これをもって黄忠のことを「老将軍」としてしまったのは、その後の民間伝承による長年をかけての「属性追加」ということになりそうです。

 

まとめ:黄忠はつまり民間伝承での愛されぶりがすごかった?

黄忠の様子を見に行く趙雲

 

けっきょくのところ、黄忠の凄さは民間伝承での愛され方ということになりましょうか。どこからか付与された「愛すべき老将軍」というキャラ属性がどんどん膨らみ、そこに弓矢の名人というキャラ属性も追加され、厳顔と老将軍コンビを組んで格好良く暴れたり、夷陵の戦いで劉備に看取られながらの感動的な最期を遂げたり、もうよい事ばかりです。

 

一度民間伝承で確立されてしまった「キャラ立ち」というものは、こんなにも、何にも勝るものなのでしょうか?

 

私自身も含めて、はっきり言って誰も「老将軍以外の姿」で黄忠を想像することができないのではないでしょうか。極端な話、黄忠と言えば、もはや生まれた時から白髪・白髭だったのではないか、と思ってしまうくらいではないでしょうか。

 

三国志ライター YASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

関羽の「老兵」というひとことがここまでふくらませた黄忠のイメージ。中国の庶民からの愛されっぷり自体が、凄い!

 

黄忠VS夏侯淵

 

そして、関羽と互角に一騎打ちを行い、夏侯淵を討ち取ってしまう「演義の中の黄忠」の凄さこそ、これからも愛され続けるイメージとしてメディアの中で生き続けることになるのでしょう。『正史』の中での描かれ方がどんなに薄いものであったとしても!

 

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夷陵の戦い

 

 

 

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