時々、読者の三国志のなぜに答える事でお馴染みのはじめての三国志。
最近は読者ちゃんから、以下のような質問がありました。
今回は誰もが疑問に思いながら分からない、劉備の下から去って魏に仕えた徐庶はその後、どうしたのかについて解説します。
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この記事の目次
劉備の下を去る徐庶
正史によると、徐庶は劉備と同じく任侠的な気質の人であったようです。
劉琮が曹操に降伏した事を樊城で聞いた劉備は、手勢を率いて南に向かいますが、そこまでは徐庶と諸葛亮は劉備と共に行動していました。
先主在樊聞之 率其衆南行 亮與徐庶並從
正史三国志諸葛亮伝が引く魏略
しかし、曹操軍が徐庶の母を捕らえると徐庶は気が気でなくなります。
そして、以下のような有名な台詞を残して劉備と別れるのです。
本欲與將軍共圖王霸之業者 以此方寸之地也 今已失老母 方寸亂矣 無益於事 請從此別
意訳すると、
私が将軍と共に王覇の業を図ろうと思ったのは真心からでした。なれど、現在は老母を失い、私の心も千々に乱れました。
このような精神状態では、とても益のある働きはできかねますので、ここでお別れをしたいと存じますと読めます。
徐庶の言葉を信じるなら、彼には劉備の将来性についての打算があったわけではなく、劉備の心意気に感じて手を貸す気になったようです。
ただ、そういう情の人であればこそ、老母を捕らわれるという事態に非情な割り切りが出来なかったのでしょう。
曹操の政権下で御史中丞に出世した徐庶
三国志諸葛亮伝が引く、魏略によると孔明は劉備に従って去り、徐庶は石韜と共に北に来たとされています。
こちらの石韜なる人は、諸葛亮と出会う前からの徐庶の知り合いで交友も諸葛亮よりも深かったと考えられます。
黄初年間(220年~226年)石韜は出仕して郡守と典農校尉を歴任し、一方の徐庶は右中郎将から御史中丞に昇進したようです。
徐庶が任官した右中郎将というのは、後漢の頃には比二千石という官職で皇帝を護衛する近衛兵を率いますが
曹魏では、どのようになっていたか不明です。しかし、近衛兵の隊長であった事は動かないのでしょう。
撃剣の名手であった徐庶を考えると、役職としてはピッタリかなと思います。
その後に任官したのが御史中丞ですが、こちらは公卿の上奏を受領して内容を調べて弾劾するという役割でした。
御史中丞は四品で州刺史と同格なので、徐庶は諸葛亮の語った人物評
「君は出世すれば、郡太守、州刺史にはなれるだろう」とピッタリ一致したのです。
御史中丞をクビになった徐庶
ところが、魏に仕えた徐庶の人生は順風満帆とはいきませんでした。どうやら御史中丞まで登った徐庶の地位は格下げされたようなのです。
それが推測できるのは、北伐の途中に徐庶と石韜の境遇を聞いた諸葛亮の嘆きのセリフです。
「魏は殊に多士なのか、どうして彼ら二人が用いられないのだろう?」
魏略
この孔明のセリフは、太和年間(227年~232年)だと考えられています。
もしこの時、徐庶が御史中丞に留まっていたなら諸葛亮は、上のような嘆き節を言うわけはありません。
きっと、さすがは徐庶、私の評価通り出世してくれたと言うでしょう。
それは黄初年間には、御史中丞まで登った徐庶が太和年間には降格処分の憂き目を見た事を意味するのです。
御史中丞をクビになった後、徐庶は彭城相だった
徐庶の没年は、諸葛亮とほぼ同時期であったようで碑は彭城にあると魏略には記されています。
正史三国志が伝える徐庶の履歴はこれだけですが、北魏に仕えた麗道元が延昌四年(515年)に著わした水経注という地理書には、
以下のような徐庶についての記述があるのです。
宣帝地節元年 更為彭城郡 王莽更之曰和樂郡也 徐州治 城內有漢司徒袁安 魏中郎將徐庶等數碑 竝列植于街右 咸曾為楚相也
簡単に意訳すると、紀元前69年に楚国は彭城郡に改められた。王莽の時代に、和楽郡に改められ徐州の治県になる。
城内には、後漢の司徒、袁安、魏中郎将徐庶等の幾つかの碑があり街路の右側に並び立っている。彼らは皆、楚相であった。
この記述を信じるなら、少なくとも6世紀の頃までは彭城県には、土地で相を務めた人物の碑が残っていた事になります。
そして、徐庶は彭城郡の相だった事になるのです。
徐庶の仕えていた郡王は曹拠だった
彭城相とは、一般の地位で言えば郡太守という事になります。
ただ、曹魏王朝では後漢と同様に、曹操の息子達を郡王に封じていたので郡王が置かれた郡では、郡太守は相と呼ばれていたのです。
こちらの相は比二千石で、五品、御史中丞よりは下ですが、地方官としては最上級で、中央に推挙される重要なポストでした。
徐庶が御史中丞になったのは224年の詔勅のせい?
不思議なのは特に落ち度も(手柄もですが)無さそうな徐庶がどうして、御史中丞になり、またクビにされたのかという事です。
しかし、その理由について詳しく書いている史料はないので、かなり大胆に推測してみます。
徐庶は恐らく、御史中丞になる前から彭城の相で曹拠に仕えていました。
ところが、自分達の兄弟が郡王という大きな勢力を持つ事に不安を覚えた文帝曹丕は西暦224年に詔勅を出し、
郡王を軒並み県王に格下げしました。こうして、曹拠も定陶県王に格下げされます。
全くの推測ですが、この時に相だった徐庶は引き立てられ人事異動で御史中丞になったのではないでしょうか?
ところが、曹丕の詔勅は曹丕の死後、232年に明帝曹叡により取り消しになり曹拠は再び、彭城王に返り咲く事になります。
この時に、御史中丞だった徐庶も再び彭城の相になる為に降格されたそんな風には考えられないでしょうか?
三国志ライターkawausoの独り言
もしかすると、曹拠は徐庶を気に入っていて、徐庶が相でないと困ると曹叡に要望を出していたのかもと想像します。
元々、意気に感じる人であり、積極的な猟官活動をしていない徐庶は御史中丞の地位に未練をみせず彭城相に戻り間もなく死んだ。
kawausoは、そんな風に考えています。
参考文献:正史三国志 水経注
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