曹昴の死因は曹操を助けたことだった?曹昴の死を考察

2019年10月29日


 

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曹昂(曹昴)

 

曹昴(そうこう
)
曹操(そうそう)の息子の1人です。確認がとれる限り曹操の最初の子供であり、曹丕(そうひ)の異腹兄です。本来なら(220年~265年)の皇帝は曹丕ではなく、彼が即位するはずでした。

 

曹昂(曹昴)

 

しかし、曹昴は建安2年(197年)に南陽の張繍(ふちょうしゅう
)
と戦った時に討ち死にしたので魏の成立を見ることが出来ませんでした。今回は正史『三国志』をもとに曹昴と彼が亡くなった「宛城の戦い」について解説します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすいように翻訳しています。

 

自称・皇帝
当記事は、
「岳飛 子孫」
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操と子供として生まれる曹昴

曹昂(曹昴)

 

曹昴の生年は不明です。おそらく後漢(25年~220年)第12代皇帝霊帝(れいてい)の光和年間(178年~183年)には誕生していたと推測しています。母は曹操の側室の劉夫人、妹は後に夏侯楙の妻となる清河長公主でした。

 

陳寿 三国志

 

曹昴の性格や才能の具体的記述については正史『三国志』の著者である陳寿(ちんじゅ)は何も記していません。陳寿がなぜ曹昴に関して記録を残さなかったのかは分かりませんが、裴松之が注に持ってきた『魏略』という書物によると曹丕のコメントが残されています。

 

「兄の曹昴は生きていても皇帝になるには限界があった・・・・・・」

 

曹操と曹丕

 

どうやら弟の曹丕から見れば曹昴は政治家としての才能は、あまり無かったようです。身内からのコメントなので余計リアルですね・・・・・・

 

曹操を助けて命を落とす曹昴

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

それでは曹昴はダメな人だったのでしょうか?実はそうでもありません。

 

張繍

 

建安2年(197年)に曹操は南陽の宛城を拠点にしている張繍を攻めます。

 

曹操と張繍

 

張繍は曹操が攻めて来たと知ると慌てて降伏。兵士に損害が出ることもなく領土を得れたので、曹操はすっかり気を許しました。

 

賈詡と曹操と張繍

 

だが、張繍の罠でした。張繍は曹操のスキを突いて奇襲を仕掛けます。だまされたと気付いた曹操ですが時は遅すぎました。急いで逃走しますが、愛馬の絶影が矢を受けてしまい死亡。曹操は徒歩で逃走を余儀なくされます。するとそこへ駆けつけたのが、息子の曹昴でした。

 

曹操

 

曹昴は自分の馬を曹操に差し出して逃げることを伝えます。曹操はお礼を言う暇も無く、馬に飛び乗ると急いで戦線から離脱。残った曹昴は向かって来た張繍軍と戦いました。だが、奮戦もむなしく敵の白刃の前にその命は尽き果てました。享年は不明。おそらく15~20歳と推測されます。

 

復讐の曹丕

丁夫人

 

曹昴の死後、曹操は散々でした。曹操の正室の丁夫人(ていふじん
)
は、曹昴の死を知ると激怒して曹操と離縁を申し出ます。曹操は再三に渡り説得しますが、彼女の信念は変わりません。曹操はやむを得ずに離婚しました。

 

官渡の戦い 騎馬兵

 

一方、張繍は建安4年(199年)には曹操に自ら降伏。翌年の官渡の戦いでも活躍するなど、曹操軍の主力となります。曹操は才能さえあれば、かつての怨恨は全て忘れます。ところが、それを忘れていない人物がいました。

 

皇帝に就任した曹丕

 

曹丕です。曹丕は張繍が兄の曹昴を殺したことを許しません。張繍が曹丕に頼みごとをしに現れた時は、「兄の曹昴を殺した奴が、どうして平気な顔をして会うことが出来る?」と言い返しています。曹丕の存在に不安を感じた張繍は、建安12年(207年)に自殺しました。

 

曹丕にビビって意見を言えない家臣達

 

前述したように曹丕は曹昴に対して辛口評価をしています。ただし、それは「政治家」という側面から見てです。兄弟という側面で見直したら曹丕にとって曹昴は頼れる兄だったのかもしれません。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が曹昴に関しての解説でした。曹操は死ぬ間際、「もしあの世で曹昴が『父さん、母さんはどこにいるのですか?』と尋ねたら、私はなんて答えればよいのだろうか?」と人に語りました。

 

曹操は死ぬまで別れた丁夫人や自分のせいで戦死させてしまった曹昴のことを気にかけていたのです。

彼は1人の夫であり、父でした。なんだか悲しい話ですね・・・・・・

 

※参考文献

・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物往来文庫 2010年)

 

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英雄の死因

 

 

 

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