明智光秀は織田信長に何回殴られた?カウントしてみた


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織田信長

 

2020年のNHK大河ドラマの主人公は明智光秀(あけちみつひで)です。

 

本能寺の変で主君、織田信長を討った光秀ですが、その背景には信長により繰り返された折檻(せっかん)、簡単に言うとパワハラがあったと言われています。

では、明智光秀はどれだけ信長にブタれたのでしょうか?

ここでは、文献の信憑性(しんぴょうせい)は置いて信長の光秀への折檻の回数について紹介します。

 

kawa(ちゅう)

 

※折檻とは:元は主君を厳しく(いさ)める事。転じて、厳しく(しか)ったり、()らしめの体罰を加える事を意味します。

由来は、前漢の成帝(せいてい)が自身に激しく諫言(かんげん)した朱雲(しゅうん)に対して腹を立てて宮廷から引きずり出そうとした時、

朱雲は抵抗して欄檻(らんかん)につかまり、やがて折れてしまいました。

成帝は死をも恐れず諫言した朱雲を讃え、あえて欄檻をキレイに直さず折れた部分が分かるようにし顕彰(けんしょう)の証とした故事に因みます。

 

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言葉による暴力キンカン頭

嫉妬している明智光秀

 

織田信長は、あだ名をつける名人でした。

木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)時代の秀吉にハゲ(ねずみ)とあだ名をつけた事で有名です。

さらに信長は光秀にもキンカン頭とあだ名をつけている事が、義残後覚(ぎざんこうかく)という16世紀の末に成立した史料に出てきます。

それによると、庚申待(こうしんまち)という徹夜で起きていないといけないイベントで光秀は小用の為に席を立ちました。

それを見た信長は、いきなり槍を取って光秀の前に立ち「この金柑頭(きんかんあたま)め、座席を立ってどこに行くのか?」とからかったそうです。

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

金柑とは、丸くて黄色く艶のある柑橘類(かんきつるい)の事で、これが禿頭(はげあたま)の事を意味すると言われています。

つまり、信長は「ハゲ!どこに行く気だコラ」と言ったのです。

明智光秀が本当に禿(はげ)ていたか不明ですが、仮にハゲていなくてもハゲ、ハゲと言われるとストレスになるでしょうね。


稲葉一鉄の家臣を引き抜き、信長に投げられる

キレる織田信長

 

川角太閤記(かわすみたいこうき)という江戸初期に書かれた本によると、明智光秀は、稲葉一鉄(いなばいってつ)の家臣で一鉄と不和だった斎藤利三(さいとうとしみつ)を引き抜きます。

これに対して一鉄が激怒、信長に調停を依頼しました。

信長は美濃攻めの時に一鉄に助力してもらった恩義から一鉄の肩を持ち、光秀に斎藤利三を返すように言いますが、

光秀は拒否したので、怒った信長は光秀の(もとどり)を掴みブン投げたそうです。

 

翁草(おきなぐさ)という史料では、光秀はさらに強硬に反対しており、

「三十万石頂いても栄耀(えいよう)とは思いませぬ善き士を召し抱えるのも信長公への奉公のため」と叫んでいます。

裏切りそうな悪い顔をしている明智光秀

 

また、続武者物語(ぞくむしゃものがたり)では信長は光秀の頭を敷居にこすりつけたそうです。

敷居に頭をこすりつけられるのは兎も角、髷を掴んで投げるとは相撲好きだった信長の嗜好が感じ取れ、かなりバイオレンスですね。

 

【信長を討った明智光秀の波乱の生涯】
麒麟がくる


武田滅んだ、我らの手柄発言で信長キレる

武田信玄死去

 

慶長十二年(1607年)に成立したとされる柿屋喜左衛門(かきやきざえもん)祖父物語(そふものがたり)では、武田勝頼(たけだかつより)を滅ぼした織田の軍勢が

諏訪(すわ)の法華寺で酒宴を開いている時、ようやく、十年近い激闘の末、武田氏を滅ぼせたという安堵感(あんどかん)から光秀がつい

「大変にめでたい事、我らも骨を折った甲斐がありました」と漏らすと信長の顔色が志村けんのバカ殿様レベルで豹変。

 

「お前がどこで骨を折ったと言うのだ!ああん?」と激怒

泣いている織田信長

 

光秀の頭を掴んで引き回し、欄干に顔を押し付けたという話があります。

これらの話は一次史料ではなく、いずれも二次史料、三次史料で元々の話に尾ひれがついたり、伝聞が(ふく)らんだり全くの捏造(ねつぞう)もあるかも知れません。

しかし、こと明智光秀に関してだけ、これだけバイオレンスな話があるのは本能寺の変が、当時の人々には意外であり、

きっとひどく信長に殴られヤケになったんだろうと動機を推測された結果なのでしょう。


本当に折檻されていたのか?ルイス・フロイスの明智評

宣教師 ルイスフロイス

 

戦国時代にキリスト教布教の為に、日本に来ていた宣教師、ルイス・フロイスは膨大な報告書「日本史」を残していますが、

この中における明智光秀評は、冷酷で残忍、表面を飾るのが上手く忍耐強く、人を(あざむ)く手法を七十二も持つと散々です。

そして、フロイスは信長による光秀への折檻について

 

光秀が信長と密会をしている時、何か信長の意に沿わない発言で信長の勘気に触れ、立ち上がった信長は、

一度か二度光秀を足蹴にしたそうだと書き記しています。

安土城 織田信長が作らせた城

 

これを見ると、やはり信長はパワハラ野郎かなとも思いますが、フロイスによると、

この事は密室での事なので長らく噂にも上らなかったとも記されています。

そしてこれが噂になったのは、光秀が自身が信長を討った根拠にする為に、意図的(いとてき)に振りまいたかも知れないと推測しているのです。

燃える本能寺

 

これが本当なら世間に流布する信長パワハラ加害者・光秀被害者の図式は本能寺の変を正当化する為に光秀が流したデマという事になります。

ただ、ルイス・フロイスはキリスト教に敵対的な人物を悪しざまに書く癖があり明智光秀はカトリックに何の関心も示さない人でした。

この為に、ことさらに悪しざまに書かれた可能性もあります。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

しかしよく考えてみると、信長の気性が荒いなら光秀以外にも信長に折檻(せっかん)された武将がいても不思議はありません。

ところが、光秀以外で信長に折檻を受けた人物は見当たらないのです。

佐久間信盛(さくまのぶもり)にも折檻状が出ていますが、あれは文面で信盛をボロクソに批判したもので、実力行使ではありませんでした。

 

kawauso

 

もっとも信長の場合、本当にキレたら折檻どころではなく、手打ちにされそうな気もしますが・・

そう考えると、信長はキレたからと言って、家臣を殴るようなパワハラ上司ではなかったかも知れません。

すると、光秀が本能寺の変を正当化する為に信長をパワハラ上司として宣伝し、それがもっともらしかったので

長い歳月の間に史実のように思われたかも知れません。

 

参考文献:歴史旅人 明智光秀 歴史から消された生涯の謎を徹底解明

参考文献:フロイスの見た戦国日本

 

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【戦国風雲児の意外な素顔】
織田信長スペシャル

 

 

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