法正をご存知でしょうか。三国志ファンならご存知ですね、はい、非常に性格に難があるにも関わらず劉備に厚遇された人物です。今回注目するのはその法正……の、功績がどれくらいだったのか?についてです。
劉備から直接諡を送られた唯一の人物、法正。
彼の功績は一体どれくらいだったのか、どれほど大きかったのか見ていきたいと思います。
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法正は処罰もできないほどの功績の高さ
何度でも繰り返しますが法正の個人の能力は非凡、しかしその性格の悪さも類を見ないほどと言われています。その性格の悪さが分かるのが益州奪取の後に行われた私情丸出しの処刑です。過去に恨みがあった人物を法正は次々に処刑していきました。
法律に照らし合わせた訳ではありません、完全なる私刑です。余りにも酷いと諸葛亮に訴えが来ましたが、諸葛亮は「法正の功績を考えればそれはできない」と語ったと言います。このことから法正の功績が非常に高いことが分かりますが、しかしその一方で法正の功績はどの程度であったのか?という疑問も沸きますね。
ではそんな法正の功績について、色々と考察していきましょう。
益州取りの功績点
法正の最大の功績点と言えば、やはり益州奪取の功績点でしょう。法正は張松らと共に劉備を益州に招き入れて、新しい君主として迎えました。
そこに至るまでに長い戦いがあったとしても、結果的に劉備は益州という天下に名乗りを挙げられる土地を手に入れました。放浪期間の長かった劉備として、そして劉備軍としても非常に嬉しかったでしょう。やはりこの功績は大きなものです。
そして法正の功績が大きくなった理由にも、この益州取りが関わって来ていると思うのです。
張松の存在の影響……
というのも、益州を劉備に渡してしまおうと考えたのは法正ではありません。
張松がまず劉備を招き入れようと考え、友人だった法正はそれに乗ったのです。孟達も含めて三人は劉備を招き入れる策を考えますが、この計画は露見してしまいます。
密告されて張松は斬首。この際に法正は難を逃れ、劉備の元に身を寄せて助かりました。
ここで張松が斬首され、法正が生き残ったことが法正の功績に影響しているのでは?と考えました。益州奪取の功績は張松にもある、しかし張松はもういない、だから功績は法正に大きく傾いた……という考察です。
運が良かったのかどうなのか、張松の死が法正の功績に影響した部分はあると思います。
劉備個人からの功績の高さ
また、大きいのが劉備本人からの評価です。劉備は不思議なほど法正の言うことは聞き入れ、法正を非常に重用しました。
夷陵の戦いで法正さえ生きていれば劉備を止められた……そう諸葛亮が後年に嘆くほど、劉備を止められる存在として法正の存在は大きかったのです。
法正の死後にも劉備は諡を送りました。これは関羽や張飛でさえ受けていない、法正だけの特別な扱いです。功績があったから劉備に重用されたのか、劉備に重用されたから功績が高いと判断されたのか、それは分かりません。
しかしやはり法正の功績は劉備の影響も高いと思います。なので法正の功績を語るとなると、劉備の影響は欠かせない要因であると思いました。
三国志ライター センのひとりごと
今回は諸葛亮が処罰できないとまで言い切った法正の功績について、考察してみました。
もちろん諸葛亮は法正の功績の他に能力や劉備についても言っているので、ただ功績のみとは言い切れないでしょう。しかしそれを差し引いてもやはり法正の功績は、当時の劉備たちにとって、そして劉備個人にとって大きかったのではないでしょうか。
法正は短命に終わりましたが、もし長生きしていたらどれほどの功績を更に上乗せしてきたか……そう考えると、より三国志の面白さが深まると思います。
皆さんも法正のみならず、色んな武将たちの国への貢献について注目してみて下さいね。
参考文献:蜀書龐統法正伝
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