陸遜というと、夷陵の戦いでの活躍が知られる武将です。対蜀のような武将に思われますが、この後の対魏でも活躍している、呉きっての優秀な武将でしょう。
しかしその国への貢献、本人の優秀さにも関わらず、晩年は憤死したとも言われている人物でもあります。どうしてこれほどまでに国へ貢献した働きを見せた陸遜が憤死するまでに至ったのか……今回はそこに注目してみたいと思います。
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陸遜の功績の大きさ
陸遜の功績の大きさでは、やはり劉備を打ち破った夷陵の戦いが挙げられると思います。当時陸遜はまだ無名の存在、それにも関わらず抜擢され、それに応えて抜群の功績を残しました。この勝利の影響は大きく、この後の対魏での三方面作戦にも影響があります。
三方面作戦でもしも、万が一にも、蜀が魏と組んで呉の背後を狙うとなれば、呉はそちらに意識を回さなければならなかったでしょう。しかし夷陵の戦いでの敗北もあり、蜀は動けませんでした。
孫権の対蜀との外交能力もありますが、やはり陸遜の夷陵の戦いでの功績が大きかったのではないでしょうか。そして呉は魏との戦いも相手に大打撃を与え、生き残りました。
対して、晩年の悲痛さ
このような華々しい功績があるにも関わらず、陸遜の晩年は悲痛とも言える状況になります。それこそ孫権の評価を落とす一因ともなっている「二宮の変」。
簡単に説明してしまうとお家問題ですが、陸遜はこれに巻き込まれてしまいます。何度も孫権から問責され、一族が流刑処分にされ……陸遜の最期はこれらによる憤死と言われているように、とても夷陵の戦いでの功績があるとは思えないほどの扱いを受けていました。
どうしてあれほどまでに功績がある陸遜にこのような仕打ちがされたのでしょうか?
陸遜は扱いが難しい位置にあった……?
ここで注目したいのが陸遜は孫策の娘婿ということです。孫策は孫権の兄、早すぎる死によって弟である孫権が後を継ぐことになりましたが、その血縁関係者たちはもちろんまだ存在し、そして問題となります。
普通の家なら兄の遺児で済むでしょう。しかし当時の孫権は既に皇帝となり、後継者問題が付きまといます。皇帝が一番警戒するのは、基本的に身内です(例外もあります)。孫策の血筋は陸遜の一族とくっ付き、残っている。
つまり孫権から見れば、陸遜もまた警戒しなければならない人物の一人と言えるのです。なので陸遜は皮肉にも、孫権から見れば扱い難い存在になっていったのではないかと思うのです。
孫権に影響を与えたお隣さん
二宮の変の話に戻しますが、孫権がこの後継者問題解決に乗り出したのは250年。歴史に詳しい方ならこの時、お隣の魏で何が起こっていたかご存知でしょう。
そう、司馬懿のクーデターから始まった司馬家の実権奪取です。それ以前にも曹爽の専横などで、魏でもまた後継者問題で揉めた時期だったのです。孫権が二宮の変を早々に決着付けられずにいたりしたのも、もしかしたらこれらが影響していたのではないでしょうか。
結果から言えば、曹魏では曹丕が一族に権力を持たせないようにしたために、別の一族に乗っ取られることになりました。どうにかしてこれを防ごうとして一族に力を与えながら、それでも権力は中央に集中しようとした結果……大失敗に終わってしまったのではないかと思います。
そしてその失敗が、陸遜にまで及んでしまったのでは……と思いました。
三国志ライター センのひとりごと
今回は陸遜の最期に関して、どのような意図があったのかを考察してみました。結論だけを簡単に言うとお家問題ですが、拗れに拗れたお家問題がいかに周囲にまで影響を出してしまうかどうかが分かります。
そして何よりも、皇帝ともなると後継者問題での失敗が大きく響くのだということも分かりました。それを考えてみると蜀漢の後継者問題はそれほどまでに問題がなく、上手くいった方なのだな……と思うと、何だか悲哀も感じられました。
こういった後継者問題は目を背けたくなるようなドロドロ要素が強いにも関わらず、なぜか見てしまう魅力があります。三国志の楽しみとは違うかもしれませんが、こういったお家問題に関してぜひ、他の家々も見てみて下さい。
家が傾くのは後継者問題から……そう考えてみていくと、ああ……と思わせる瞬間が多くあると思いますよ。
参考文献:晋書 帝紀第1 宣帝高祖宣帝 帝紀第2 景帝文帝
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