明智光秀は過労死寸前!現在なら労災適用必至って本当


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明智光秀が剣を持って戦っているシーン

 

2020年のNHK大河ドラマは明智光秀(あけちみつひで)を主人公とした麒麟(きりん)がくるです。

 

酒席で下戸の明智光秀をいじめる織田信長

 

今でも織田信長(おだのぶなが)を討った動機を色々と探られている明智光秀ですが、もしかすると動機は信長にブラック企業さながらに働かされ、過労死寸前になった恨みかも知れません。

今回は、余りにも多忙な明智光秀の仕事ぶりについて考えます。

 

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有能の証?こき使われる光秀

織田信長

 

織田信長は、部下が無能と思えば簡単にクビにしてしまいますが、一方で有能であればとことん使うという能力主義でした。光秀も信長のメガネに適い、最大限にこき使われました。過労で倒れる前の光秀のタイムスケジュールはこんな感じです。

 

・天正三年(1575年)4月高屋城(たかやじょう)の戦いに従軍

・同年6月長篠(ながしの)の戦いに従軍

・同年7月従五位日向守に任官し惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)になる

・同年8月越前一向一揆殲滅作戦に従軍。

・同年10月第一次丹波黒井城攻略を命じられる。

・天正四年(1576年)1月黒井城攻略波多野秀治(はたのひではる)の裏切りで敗北、僅かな共を連れて命からがら脱出。

・同年4月石山本願寺・天王寺の戦いに従軍。

・同年5月5日本願寺の逆襲を受け司令官塙直政(ばんなおまさ)が戦死。光秀も窮地に陥るが信長の救援で助かる

・1576年5月23日光秀過労で倒れる

嫉妬している明智光秀

 

自動車も新幹線もない戦国時代に、明智光秀はメイン合戦場である丹波攻略以外にも一向一揆攻略や、石山本願寺との戦い、長篠の戦い(非参戦説あり)に出ています。そればかりではなく、光秀の生涯でも数少ない敗北である第一次黒井城攻略失敗や天王寺の戦いでも窮地に陥るなど肉体的・精神的にも疲労が蓄積、ついに倒れてしまうのです。


医師曲直瀬道三(まなせどうさん)や妻煕子(ひろこ)の献身的な看病で復活

明智光秀と煕子(麒麟がくる)

 

倒れた光秀は、急いで帰京し、名医曲直瀬道三正盛邸で治療を受ける事になります。

当時の様子を光秀と親しかった吉田兼見は日記にこのように記しました。

 

惟日(これひゅう)もってのほか所労帰陣(しょろうきじん)在京也(ざいきょうなり)

兼見卿記(かねみきょうき)

 

光秀の病は非常に重篤になり、一時は死亡したという説も流れる程でした。信長も見舞いの使者を遣わしています。しかし、幸運にも光秀を治療した曲直瀬道三は、十三代将軍の足利義輝や、毛利元就、織田信長と名だたる戦国大名を治療し、非常に尊敬されたスーパードクターでした。

さらに大きかったのは最愛の妻、煕子の看病を受けられた事でしょう。煕子は夫の為につきっきりの看病をし、神社仏閣に参詣しては光秀の回復を祈ります。祈りが天に通じたのか二か月ほどで光秀の病状は開放に向かいますが、それに安心したのか今度は煕子が病に倒れてしまいます。

 

そして、光秀の献身的な看病も空しく、天正四年(1576年)十一月七日に亡くなってしまったと伝わります。(異説あり)自分が病に倒れなければという無念の思いが光秀にあったかどうかは分かりませんが、光秀は妻の死を無駄にすまいと、以前にも増して仕事に励んでいく事になります。

 

【信長を討った明智光秀の波乱の生涯】
麒麟がくる


奮戦の果て織田畿内方面司令官に

馬にまたがって戦う明智光秀

 

妻、煕子を失った悲しみを振り払うかのように光秀は軍務にのめり込みます。病後の光秀の奮闘ぶりは、以前に勝るとも劣らないもので、身を粉にしての働きぶりでした。こちらも時系列で上げてみます。

 

・天正五年(1577年)雑賀(さいが)攻めに従軍

・同年10月信貴山(しぎさん)城攻めに従軍

・同10月、第二次丹波攻略に着手

・天正六年(1578年)6月秀吉の毛利攻めの援軍として神吉城攻めに従軍

・同年10月下旬荒木村重(あらきむらしげ)を攻めて有岡城の戦いに従軍

・天正七年(1579年)8月黒井城を落城させ丹波国を平定、細川藤孝(ほそかわふじたか)と協力し丹後も平定。

・天正八年(1580年)丹波一国29万石を加増され合計34万石の大名になる。

明智光秀 麒麟がくる

 

このように光秀はメインの戦場である丹波攻略の傍らで秀吉の毛利攻めを手伝い、信長に(そむ)いた松永久秀(まつながひさひで)を信貴山城に討ち、また同様に信長に叛いた荒木村重(あらきむらしげ)の有岡城攻略にも従軍しました。そんな奮闘もあり、ようやく丹波は4年越しの戦いで陥落。功績から信長は光秀に丹波一国29万石を与えました。

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

さらに、光秀は信長に叱責され解任された佐久間信盛(さくまのぶもり)に代わり織田家畿内方面軍の司令官になり、丹後の細川藤孝(ほそかわふじたか)、大和の筒井順慶(つついじゅんけい)のような畿内の織田家大名が与力として参加。これらの与力の所領を合わせると240万石となり丹波、滋賀郡、南山城を含めた近江から山陰に向けた畿内方面軍が成立します。

働きに働き続け、遂に光秀は織田家臣団でも別格の方面軍司令官の地位を掴んで、織田家重鎮のポストを掴んだのです。


モーレツ戦国武将光秀の虚実

裏切りそうな悪い顔をしている明智光秀

 

織田信長の「有能武将は死ぬ寸前までこき使う」という方針にさらされたのは、光秀一人ではありませんが、本当に死にそうになったのは光秀以外には見当たりません。天王寺の戦いで敗れて病に伏せた時に、本当に死んでいれば現在の感覚なら労災適用(ろうさいてきよう)間違いなしだったと思います。

明智光秀 wikipedia

画像:明智光秀 wikipedia

 

さらに自らの看病に献身的に尽くした愛妻まで失えば、それで燃え尽きても不思議はありませんが、光秀は高度経済成長期のモーレツサラリーマンのように、悲しみもやりきれなさも力に変えて、さらにブラックな職場環境に飛び込んでいき、織田家の重役の地位にまで駆け上がってしまったのです。

 

肖像画を見る限りでは優男の明智光秀ですが、その心の内には出世したいという野望が燃え盛っていたのでしょうか?それとも、妻の命まで捧げさせた己の野望を最後まで突き進まなければ、亡妻(ぼうさい)に申し訳ないと歯を食いしばって頑張ったのでしょうか?

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

細面(ほそおもて)繊細(せんさい)で頭の切れる能吏(のうり)というイメージの明智光秀は苦労なくホイホイ出世したように傍目では見えてしまいますが、実は、目も回るような忙しさの中で過労死寸前になりながら、戦国の出世街道を驀進(ばくしん)した人物でした。

 

泣いている織田信長

 

そんな男が、自らの人生を捧げた織田信長を討つ決断をした時には、とても私達の想像も及ばぬような葛藤があったような気がします。もしかして、信長同様「是非(ぜひ)に及ばず」と呟いていたのかも知れませんよ。

 

参考文献:明智光秀 残虐と謀略

 

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