戦国時代は、現代からみても四、五百年も前であり、当然、その時代の人々と直接に会話した現代人はいません。なので、彼らがどんな風に話をしたかは永遠の謎であり想像するしかないのです。2020年のNHK大河ドラマ麒麟がくるの主人公、明智光秀もそうなのですが、彼には、その特徴的な話し方を裏付ける史料が残されていました。
それによると、光秀は早口で理路整然とした話し方をする人であり、またある口癖を持っていたようです。
関連記事:明智光秀は過労死寸前!現在なら労災適用必至って本当
関連記事:明智光秀は織田軍団でトップの実力者なの?
興福寺の裁判記録戒和上昔今禄
光秀がどのような口調で話し、どんな口癖を持っていたかを当時の記録から知るのは困難です。というのも当時の文書は文語文であり、話し言葉とは違う書き方で記していたからでした。しかし、中には例外的に文語文を排して口語文で記されている文書があり、その一つに戒和上昔今禄という文書があります。
戒和上昔今禄とは、天正四年(1576年)から天正五年にかけて、一乗院門跡となった尊勢(近衛前久の息子)に戒を授ける役目である戒和上職を巡っての興福寺と東大寺が争った裁判記録です。執筆したのは、興福寺東金堂の空誓という人物ですが、裁判記録の性質上、誰が何と言ったという記述に間違いがあっては困るので当時としては珍しく口語文で書かれています。そして、この裁判を担当したのが明智光秀である為に、彼の肉声が口語文で残される事になったのです。
早口だった光秀
この戒和上昔今禄では、興福寺が史料などを集められずに非常に不利だったのですが、織田信長が、戒和上は従来通りにせよという基本方針を示した事により、光秀は最近の事例では興福寺が戒和上を出すのが通例として興福寺勝訴の判決を下しました。その最後の部分で、光秀は以下のような事を言ったようです。
一書にて順慶申越し分にても、興福寺の道理と思うに、また承りうくれば、なおこれ是非なく、此の方道理なり、無案内にて能くききたりとて ソハクに対して自慢せられてのち茶をたまいて帰りおわんぬ
文の最期にソハクという言葉が出て来ますが、ここには人名なりという添え書きがあります。この人物は正確には宗伯であり、ソウハクが正しいのですが、どういうわけか「ウ」が飛んでしまっています。元々ウの発音は、口を閉じて発音するので聞き取りずらいのですが、それ以前に光秀が早口であり、日頃から宗伯をソハク、ソハクと発音していた可能性もあるのです。文言から考えると、空誓は宗伯を知らなかったと見え、光秀の発音からソハクを人名と理解して、添え書きに人名と記したのでしょう。
わざわざ人名なりと添え書きした点を考えると、空誓はソハクを奇妙な名前だなと考え、忘れないように添え書きしたのだとkawausoは推測します。ところがソウハクも光秀も、ソハクで耳慣れているので、空誓がそんな事を感じているとは思いもしなかったのでしょう。
kawausoも早口なのですが、早口の人の発音に慣れると、そうではない人の耳も早口に慣れてしまい、その人が早口だと感じなくなるものです。宗伯と光秀もそんな関係だったのではないかと思います。
理路整然とした光秀の口癖 是一
もう一つ、戒和上昔今禄には、明智光秀の口癖らしき文言が残っています。こちらは、長いので現代文に直して紹介します。
一、興福寺が証拠として提出した文書には年号も判もない文字の欠落などあれば信用できないだろう。是一
二、興福寺と東大寺の堂衆の間で、長老が必ず戒師となる事はない。是一
三、最近では文安三年に寿宣が戒師を勤めた。是一
四、興福寺と東大寺の間で代々続けて戒師を勤めてきた例は建久年間に東大寺が十代続いた例があり、
一方興福寺にも十代以上続いた例がある。是一
五、文安三年以降は、現在まで興福寺が戒師を務めている是一
箇条書きの一番最後に是一という文字が入っていますが、これは、空誓が裁判記録としての価値を戒和上昔今禄に求めている以上、光秀の文言と考える事が出来ます。是一はコレヒトツと読むようですが、光秀は早口で、一つ、一つの論点をコレヒトーツ!と整理しながら話す人物であったと考えられるのです。
もう一つ登場するコレヒトーツ!
明智光秀の口癖の是一は、もう一カ所出て来ます。それは、戒和上昔今禄の最期の最期、光秀が出した判決について東大寺が不服を言うだろう事を予測し、俺も理不尽な目にあってるよというプライベートなケースを披露した部分でした。
我、先祖忠節を致すゆえ、過分に所知下されし尊氏御判御直書等所持すれども当知行なきゆえ、中々右府様へ御訴訟も、え申せず、今以て不知行つかまつる間、久しく証跡は持ても、やくにたたす、是一
やはり一番最後に是一という文言が出てきています。文言の最後にコレヒトツと付け加えるのは、光秀の口癖のようです。
文書の内容は、光秀の先祖が太平記の時代に足利尊氏に仕えて参戦して手柄があったので、所領を与えるとされた尊氏直筆の印判付きの書状を持っているが、古い物なので右府様、(信長)へも中々申し出る事が出来ないので所領を得ていない。だから、古証文を持っていても役に立たないと断じています。
東大寺は、戒和上の正統性について、数百年分の史料を揃えて提出したのですが、光秀は信長の現状追認の意向を忖度し、それらの緻密な史料を古証文として不採用にし、近年は興福寺が戒和上を勤めているという事に重点をおいて興福寺勝訴としました。
もちろん、東大寺はそんなバカなと怒ったでしょうが、それに対して光秀は俺だって太平記の時代に先祖が手柄を立てて、所領を足利尊氏からもらったけれど、実際にはもらえないままだった、その時の証文は保持しているが、今となっては古証文だからどうしようもないんだよと言い訳をしようとしたようです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
戒和上昔今禄から推測すると、光秀は早口で、そして物事を理路整然と話し言葉の最期にコレヒトーツと加える口癖を持つ人であり、理不尽な出来事について人に文句を言われそうな時には、そうは言うけれども、私は私で昔はこういう事があってなという人だったようですね。kawausoも早口なので、なんだか親近感が持てました。
参考文献:明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人になったか NHK新書出版
関連記事:明智光秀は織田信長に何回殴られた?カウントしてみた