明智光秀はマルチタスクの名人「自分が出陣せずに丹波を落とす方法」


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皆さんはマルチタスクという言葉をご存知でしょうか?複数の作業を同時にもしくは短期間に並行して切り替えながら実行することを言います。

 

孔明

 

情報化が高度に進んだ現在では、マルチタスクの能力は必要不可欠ですが、今を去る事450年前、このマルチタスクをこなしていた戦国大名がいました。それが2020年のNHK大河ドラマ麒麟(きりん)がくるの主人公、明智光秀(あけちみつひで)です。今回は織田家重臣として多忙を極めた彼のマルチタスク仕事術を見てみましょう。

 

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丹波攻めの失敗と過労でマルチタスクに開眼

明智光秀 麒麟がくる

 

明智光秀はマルチタスクの名人と書きましたが、以前の光秀は、むしろ細かい仕事までも自分で突き詰めて行う人物でした。その性格は緻密(ちみつ)で迅速な仕事を実現し、それ故に増々、信長に信頼され、さらに仕事が増えるという悪循環に陥ります。

その仕事の仕方がバーストしたのが、天正三年(1575年)の9月織田信長に丹波攻めを命じられた時の事でした。この丹波は山がちの土地で昔から、土着勢力が離合集散を繰り返していて、安定した統治が難しい土地でした。

三国志のモブ 反乱

 

光秀は、翌月には丹波攻略に取り掛かりますが、調略したはずの丹波三上城主の波多野秀治(はたのひではる)が黒井城攻めの最中に黒井城主、赤井直正(あかいなおまさ)に内応して光秀に叛き、翌天正四年1月に、波多野氏と赤井氏の挟み撃ちに遭い、あわや光秀も討たれる寸前という大敗北を喫します。

 

これは光秀の生涯でも最大級の敗北であり、これを取り返そうと光秀は懸命になりますが、あざ笑うかのように、大坂本願寺の再蜂起があり、光秀も与力として従軍します。ここもかなりの大激戦で大和守護の原田直政が戦死。光秀も諸々のショックと疲労で倒れ、京都の曲直瀬道三の屋敷で二カ月の長期療養を余儀なくされます。

ただ、流石は名将光秀、病気で苦しんでいる間も、自分の仕事の仕方を見直し、マルチタスクのこなしかたについて開眼(かいがん)するのです。


丹波攻略を長期戦に切り替え、部下に任す

キレる織田信長

 

さて、並みの人物なら仕事をこなす上で、直接自分の利益になる丹波攻略に傾注して、信長の命令で加勢する手伝い戦は手を抜きがちです。しかし、それをすれば働きが悪いと信長に叱責(しっせき)される事は確実でした。そこで光秀は急がば回れで早期に丹波攻略をする事を諦め、包囲戦に切り替えたのです。

信長公記は光秀の包囲戦の様子を以下のように描写します。

安土城 織田信長が作らせた城

 

堀をほり、塀や柵を幾重にも巡らせ、塀には隙間なく兵卒を張り付けて、番小屋を掛けさせて常駐させ、さらに巡回の兵士を絶えず巡らせている。まさに獣も通らない完璧な包囲網であった。

 

補給を断ち、挑発には乗らず、敵が飢えて降伏するのをひたすらに待つという時間はかかるものの確実な勝利の方法を光秀は採用します。こうして光秀は丹波攻めを部下に任せて、自身は、それ以外の公務を淡々とこなして、時々様子を見に来るだけにしたのです。

まさに逆転の発想、もっともウエイトが重い丹波攻略を部下に任せてじっくりと行い、余裕をもって、別のタスクをするというマルチタスクの達人ぶりを光秀は見せました。

 

【信長を討った明智光秀の波乱の生涯】
麒麟がくる


戦国版SNSを活用した光秀

武田騎馬軍団 馬場信春

 

もっとも、常に丹波攻めに張り付いていなくてもいいという事は、戦は丸投げでいい事を意味しません。刻々と変化する戦況を最終判断するのは光秀なので、戦場には不在でも最新の情報は常に入手し、後方から細かい指示を出していかないといけません。

例えば、光秀の配下として丹波で戦っていた小畠氏(こばたけし)に宛てた書状にはこうあります。

西遊記巻物 書物

 

昨日、(とり)の刻に出発した手紙が今朝、(たつ)の刻には京都に到着し無事に確認できました。

飛脚(ひきゃく)の仕事に時間の無駄がなく喜ばしい事です。

 

これは、丹波の戦場から午後六時に出た飛脚が、翌朝の八時には京都にいた光秀に到着した事を意味しています。時間にして14時間は当時としては驚異的な速さでした。これを実現したのは、織田信長が領国において実施した大規模な土木工事で道路が拡張され、かつ安全になっており、夜中でも街道を通るのが可能になっていた事があります。

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

迅速(じんそく)な情報伝達は、信長と戦っていた他の戦国大名にはない強力なメリットでした。こうして、光秀は戦国版snsを活用し、丹波から離れた場所からもリアルタイムで指示を出し続ける事が出来たのです。


天正七年4年越しの戦で丹波攻略

明智光秀が剣を持って戦っているシーン

 

丹波の在地勢力は、以前から他国勢力の侵入を何度も撃退していた古強者(ふるつわもの)でした。その自信から、頑強に城を守って抵抗すれば光秀も兵糧が切れて諦め退却するだろうと思い込んでいたのです。

しかし、光秀の戦はそれまでの常識を覆し、長期の籠城を可能にする財力と兵員と輸送を安定させる道路拡張や道路の新設、丹波亀山城のような拠点となる城の築城、驚異的な速さで戦況を伝える情報網など、全く新しい合戦のやりかただったのです。

豊臣秀吉 戦国時代2

 

もちろん、これは光秀だけではなく、織田軍団に共通した戦いのやり方でした。光秀のライバルである羽柴秀吉(はしばひでよし)が、包囲戦、水攻めなどを多用したのも、織田軍団の戦い方がそのベースにあるのです。

丹波攻略から4年、光秀の水も漏らさぬ包囲戦は着実に効果を現し、敵方の城兵は飢え渇き、自暴自棄になって城から討って出ては光秀軍に殲滅されるという凄惨な状況になります。そして、天正七年(1579年)8月9日、第一次丹波攻めで光秀に煮え湯を飲ませた。赤井直正の居城、黒井城が陥落、9月22日には最期に残った国嶺城を落城させ、足掛け4年に及んだ丹波攻めが終結します。

 

国嶺城を陥落させた直後の光秀の書状は激情を吐き出したものでした。

裏切りそうな悪い顔をしている明智光秀

 

三カ年以来之鬱憤(うっぷん)(さん)(そうろう)

 

こうして、光秀は丹波攻めを部下に任せつつ、遠隔地から指揮を執り、その間に次々と発生した本願寺一向一揆との戦いや、松永久秀、荒木村重(あらきむらしげ)謀反(むほん)のようなイレギュラー案件を次々とこなし、マルチタスクを上手に実現したのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso編集長

 

明智光秀を見ていると、その頭の柔らかさに驚きます。

最初の丹波攻めに失敗した天正四年は、光秀が大永八年生まれとすれば、すでに47歳であり順調に出世していれば、課長クラスの中間管理職です。

その年齢の人が、仕事の進め方で行き詰まり過労で倒れると一念発起(いちねんほっき)して、仕事のやり方をガラっと変え、さらに大きな成功を収めるなんて、なかなかないでしょう。光秀は信長同様に既成(きせい)の概念に(とら)われず、常に最適な仕事の仕方を模索して革新的な方法を生み出す人物だったのです。

 

参考文献:明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか

 

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