織田信長と言えば、革新的な戦術で有名です。長篠の戦いでの鉄砲三段撃ちは不可能という話になっていますが、それ以外にも村上水軍を撃破した大砲付きの鉄甲船を七隻保有していたという記録もあります。しかし、どうもこの鉄甲船が村上水軍を殲滅させたというのは、怪しい話であるようなのです。
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そもそも鉄甲船であるかどうか不明
織田信長の鉄甲船ですが、そもそも船が鉄甲で覆われていたという証拠はないようです。鉄甲船が鉄で覆われていたという記述は、大和国興福寺の学僧英俊が記した多聞院日記に出てきており、鉄の船で鉄砲の弾丸を防ぐ用意があったとされています。しかし、英俊は実際に鉄甲船を見ていないようで、全ては伝聞情報なのです。
逆に、鉄甲船を見た人々の証言、宣教師のオルガンチノの耶蘇会士日本通信には、信長が伊勢国で建造した壮麗で巨大な船を見た。船はポルトガルの船に似ていた。船には入手経路が分からないながら、大砲と精巧な鉄砲が装備されていたという記述があるものの、船が鉄で覆われていたという記述はありません。
また、太田牛一の信長公記にも、九鬼右馬充と滝川左近が建造した合計七隻の大船が雑賀、谷輪、浦々の小船数百を鉄砲、弓矢、大鉄砲を一斉照射して打ち破ったとあるだけで、舟が鉄に覆われていたという記述はありません。
船体を鉄で覆うというのは、19世紀も後半に入らないと行われていないそうなので、もし、信長の大船が鉄で覆われていたなら、オルガンチノがこれを本国に報告しないわけはなく、そうではないという事は実際には、鉄甲船は鉄で覆われていなかった可能性もあります。
村上水軍を大砲で全滅させた証拠はない
仮に鉄甲船が鉄で覆われていなくても、それには大砲から弓矢、鉄砲が搭載されていて、そのハイテクな兵器が室町時代然とした村上水軍の小船を殲滅させたとすれば、時代の変わり目としては非常にドラマチックです。しかし、記録によると、この鉄甲船が村上水軍を大砲の力で殲滅させたという証拠はありません。例えば、1578年の第二次木津川口の戦いの場面を描写した信長公記にはこうあります。
初め、九鬼の船団は敵を持ちこたえられないように見えたが、六艘の大船に大鉄炮多くあり敵の船を近くにおびき寄せてから旗船と見受けられる舟を大鉄炮で撃破すると、敵はこれを恐れて中々寄って来ない。結局、数百艘を木津浦へ避難させ、見物人は九鬼右馬允の手柄と感心しないものはなかった。
信長公記は、鉄甲船が大砲で破壊したのは村上水軍の旗船としていますが、それを見ると、他の小舟は鉄甲船から距離を置き、近づかなくなり、ついには木津浦に逃げたとあります。これを見ると村上水軍は徹底抗戦したのではなく、被害が出ると形勢不利と見て、逃げたというのが正しい気がします。
鉄甲船の主目的は補給の阻止
仰々しく鉄甲船七隻が出てきて、被害が敵の旗船一舟とは何だか不満が溜まりますが、それは、信長がこの鉄甲船を建造した理由を知れば納得します。先ほどの宣教師オルガンチノの報告には以下のようにあります。
信長がその船の建造を命じたるは、四年以来、戦争をなせる大坂河口にこれをおき、援兵、または糧食を搭載せる船の入港を阻止せんがためにして、
そうなのです!信長の目的は村上水軍の壊滅ではなく大坂の本願寺の拠点に援軍や食料を運び込むのを阻止する為でした。だから村上水軍を殲滅する必要はなく、やってきたのを追い返して補給を止められれば信長の勝利だったのです。
しかも、この戦いの後、信長は村上水軍に盛んに調略を仕掛け、味方にならないかと誘いを掛けています。もし、鉄甲船に無敵の性能があるのなら、時代遅れの室町時代の水軍など必要とはしないでしょう。徹底破壊して鉄甲船で堂々と瀬戸内海を征けばいいのです。
でも、実際の鉄甲船は河口において補給を止める海の要塞のような役割でしかなく、決して機動力のある村上水軍の代わりになるようなものではなかったのです。近代の戦艦のイメージで鉄甲船を語ると間違えてしまうと思いますね。
注目すべきは高性能の大砲
なんだか、鉄甲船をディスるっぽい話になりましたが、鉄甲船には注目すべき点もあります。それは、オルガンチノが記述した
船には大砲三門を載せているが、どこより調達したのか見当もつかない、日本には豊後の王(大友宗麟)が鋳造させた数門の小砲を除き日本国内に大砲はない事は我々が調べて間違いないと断定できる。
イエズス会は、ただのキリスト教布教だけでなく、武器商人とも繋がっていた事がこの報告から分かりますが、オルガンチノが鉄甲船の大砲の入手ルートを知らないという事は、大砲は信長が独自に造らせたか、イレギュラーな輸入先である倭寇勢力から買い入れたかいずれかのルートが考えられます。
大友宗麟が小口径ながら大砲を製造していたのですから、より巨大な国力と優秀な技術者を集められた信長が大砲の国産化を考えても不思議ではありません。
ただ、当時の日本は製鉄技術が欧州に比べて低く、鉄砲は造れても大砲は輸入に頼っていて、徳川家康も大阪攻めの戦力としてイギリスの東インド会社からカルバリン砲を購入している位で国産化は難しかったようです。だとすると、鉄甲船の大砲は倭寇由来の輸入品だったのかも知れません。
戦国時代ライターkawausoの独り言
国際貿易においては、相手国からの制裁を回避する為に、輸入を依存しないで国産化や複数国からの輸入でリスク分散をするのが基本ですが、もし信長が大砲を一方的に欧州から買う事に不安を感じていたとすると、国産化を試みたり、別ルートとからの輸入を考える可能性もあるでしょう。オルガンチノが何よりも大砲の出どころに注目していた点に信長の手の広さを感じとる事が出来ます。
「伴天連坊主、わしはいつまでも南蛮の武器には頼らぬぞ」という信長の不敵な様子が浮かんでくるようです。
参考:「桶狭間」は経済戦争だった 戦国史の謎は「経済」で解ける / 武田 知弘 / 青春出版社 / 2014/6/3
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