広告

魏の二代目皇帝・曹叡が病で倒れなければどうなっていたか?

2019年12月17日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

曹叡

 

魏の二代目皇帝曹叡(そうえい)。彼に関しては出生云々という大きな謎があること、また病で早逝してしまったことも相まって、彼個人の能力にまで触れられていることは少ないように思います。しかし曹叡がもし早逝していなければどうなっていたか?

 

曹叡

 

彼は皇帝として能力に欠けていたのか?これらについて今回は考察してみたいと思います。

 

自称・皇帝
当記事は、
「曹叡 病」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

関連記事:【保存版】曹叡時代の魏の国内で起こった不思議な現象3選

関連記事:史実の曹休の生涯を解説!曹休は曹叡から引退勧告疑惑もあり?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



曹丕の嫡男として産まれた、が

曹叡

 

曹叡の生年については、204年説と206年説があります。そしてこれにこそ、彼の大きな謎となっているのです。曹叡は正史三国志に生年が乗っていません。歴史書に、それも皇帝の生年がないのです。記述漏れでは済まされないこの事実、これにはおそらくですが訳があります。曹叡の享年は34、もしくは36歳とされているのですが、これから逆算すると曹叡の生年が分かります。没年は239年なのでつまり206年、もしくは204年が曹叡の生年です。

 

曹操

 

そして曹操(そうそう)が冀州を攻め落とし、甄氏(しんし)袁紹(えんしょう)の息子袁煕(えんき
)
から奪われ曹丕の妻になった年なのです。つまり曹叡の生年が204年であれば曹叡の父親は……という問題が生まれてしまいます。このため曹叡の年齢が正史に書かれないという状態になってしまったのではないか……と思われます。

 

曹叡の評価

陳寿(晋)

 

陳寿(ちんじゅ)は曹叡について、こう評価しています。

 

北伐でやりあう曹叡vs孔明

 

「冷静沈着にして剛胆、決断力と見識を併せ持ち、全てを自らの意志に従って行動している姿は正に君主である振る舞いと言える。だが当時の状況を考えればまずは先代の方針に従うべきであったのに、始皇帝や武帝のように宮殿の造営を行った。これこそ彼が抱えた致命的な病であったと思われる」

 

司馬懿

 

曹叡は皇帝となった後、一時的に司馬懿(しばい)を失脚させるも後に復帰させ、以後は司馬懿に軍権を渡すことで数々の戦や内乱鎮圧を行っています。現に呉や蜀の侵攻を何度も抑え、魏から見ても大きな脅威であった諸葛亮(しょかつりょう)が没するまでしっかりと自国を守り抜きました。

 

美女を集めた曹叡

 

しかしそこから曹叡の評価は落ちてしまいます。曹叡は宮殿造営を繰り返し、新しく何人もの女性を囲い始め、古くからの皇后を亡き者にするなどの暴君とも言える行動を繰り返してしまうのです。このため曹叡というと父親と違って軍政能力は高いけれど内政能力が低いという評価を受けてしまうことが多いですね。

 

曹叡の問題行動は、どこからか

曹叡

 

曹叡は大まかに言ってしまうと諸葛亮が没してから、素行が悪くなったと言われています。

 

この頃には蜀の侵攻だけでなく呉の侵攻も大人しくなり、前々からやっていた宮殿造営を行い始めました。これによって国庫が傾いてしまっただけでなく、人手不足を補うために公卿らまで動員したことを咎めた司徒を降格させたりするなど問題行動が目立ち始めます。

 

特に宮殿造営に関してが最大の問題行動として当時は非難を受けています。ただしこの行動は農民に賃金を渡すための公共事業であったという見方もあるのは、考慮するべきでしょう。現代の感覚で言うならば、長年連れ添った皇后を殺害するなどの行動の方がよほど問題行動に見えるのですが……現代とはまた価値観が違いますから、これは仕方がないですね。

 

因みに曹叡の問題行動に関してですが、子供に先立たれ過ぎたのにも理由があるのではと言われています。曹叡は男子も含めて何人かの子供がいましたが、全て先立たれました。娘が亡くなった時の葬儀が大掛かりすぎると咎められたけれど強行した、と言われていることから子供に先立たれ過ぎた悲しみと絶望からもしかしたら精神的に疲れていたのかもしれません。

 

もしも曹叡が生き残っていたら……?

曹叡から寵愛を受ける秦朗

 

そんな曹叡は36、あるいは34歳で病死。早すぎると言わざるを得ない年齢です。この後に司馬一族の専横が始まってしまうことを考えると、曹叡がもう少し長く生きれていたら……と思ってしまいます。

 

孔明をdisった文章を送りつける曹叡

 

では曹叡がもう少し生きることができたら、どう変わっていたのか?宮殿造営や女性を囲うことばかりやって大して変わらなかったのか?そうは言い切れないと思います。まず宮殿造営の件ですが、これは諸葛亮が生きている頃から行われていたことです。

 

宮殿造営だけでなく運河などの増築も行われていましたが、国力は衰退するどころか順調に伸び進んでむしろ国力は呉や蜀とどんどん差を広げていきました。これには儒教思想が絡んでくるのですが、当時は大掛かりな土木工事を行うというのは須らく「悪」という概念があったのです。なので皇帝などを批判する時に良く「大掛かりな工事で国と民を疲弊させた」と言われるんですね。

 

洛陽城

 

しかし国を動かしていく上でインフラ設備などを整える、権威を示すために大きな建築をする、こういった行動は必須とも言えるので全く行わないのはそれはそれで問題になります。ここの扱いが曹叡は上手くなかっただけで、決して無能ではないのです。もしもう少し長生きしてちゃんと結果が出せるまで生きていれば、後継ぎが成長するまで生きていれば、曹叡はもっと評価されていたのではないか、そう思います。

 

三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

今回は曹叡について色々と考察してみました。曹叡と言うと出生の謎が大きすぎるため、どうしてもそちらを注目されてしまうことが多いですね。しかし曹叡は自身の能力の評価、行動なども見ていくととても興味深い人物です。

 

参考文献:魏書明帝紀

 

関連記事:曹叡は本当に司馬懿を信頼していたのだろうか?

関連記事:卑弥呼の使者はどうやって魏の曹叡の面会を果たすことが出来たの?

 

曹操孟徳

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
はじめての三国志 プロフィール画像

はじめての三国志

「ゆるく、たのしく、わかりやすく」をコンセプトにした 歴史エンタメメディアです。
(®登録商標:第5800679号)

-三国志の雑学
-,