有名な建安七子のメンバーの一人に陳琳、という人物が登場します。彼についての説明は後ほどするとして、この人物は最終的に病気でこの世を去ります。しかし病気で死にました、なんて言われても「何の病気?」と考えてしまいますよね。
もちろん病死と言われていても実は……があったのが三国時代、そしてただ「病」としてしか記されていないのも三国時代、気になるならば調べてみよう言うことでして!今回は気になる陳琳の死因、この謎の病について考察をしていきたいと思います。
「陳琳 死因」
「建安七子 疫病」
などのワードで検索する人にもオススメ♪
陳琳について少々……
まずは陳琳について少しばかり説明をさせて頂きたいと思います。陳琳は最初こそ何進に仕えていたものの、後に袁紹の元に身を寄せます。この後に官渡の戦いが起こりますが、ここが陳琳最大の見せ場。
曹操の悪逆非道を書いた手紙を配りまくり、これでもかと曹操をこき下ろして袁紹に如何に正義があるかを知らしめようとさせます。もちろん曹操は大激怒。自分のことだけでなく父親、祖父まで罵られたと深い怒りを抱くのです。
とは言え官渡の戦いで袁紹は曹操に敗れてしまうので、最終的に曹操の前に引き出されて前述の件を詰問されると陳琳は「弓矢を引き絞ったなら打たなければならないでしょう」と答え、その答えに曹操は満足したのか許されたと言います。
その後は建安七子の一人として活躍しますが、217年に流行した疫病で、徐幹らなど他の建安七子のメンバーと同じく病死しました。今回の注目ポイントはここです。
一体どんな病だったのか?
さてここでは陳琳は病死とされています。また他の建安七子のメンバーの多くもこの年に病死していて、何か意図が……?と考えるも、どうやらこの年には大規模な疫病が流行したようですね。疫病と言うとどうしても農業での植物の病気を想像してしまうかもしれませんが、疫病とは本来伝染病のことを指します。コレラや赤痢、インフルエンザも疫病ですね。
さてではこの陳琳の死因となった疫病とは何でしょうか?しかし調べてみるも他のメンバーも病死としか記述がなく、手掛かりはほとんどありません。ですがそんな中、気になる「疫病」を見つけました。
同じ年に流行した疫病
同じ年、217年に夏侯惇に従軍して、臧覇らと共に孫権の征伐に従軍した司馬懿の兄、司馬朗がいます。しかしこの際にもまた疫病が蔓延したようです。同じ年に同じ疫病が流行したかどうかは定かではありませんが、同じ年に流行した疫病となると何らかの関連性があるのでは、とこちらも調べてみました。
これによると「居巣まで来ると、兵士たちに疫病が大流行した」「司馬朗は自ら巡回して薬を与えて回った」「自分の分の薬も与えて病死した」とありました。司馬朗は広く慕われていたので多くの人が悲しんだとありますが、それはまた別のお話。
ここで注目ポイントになるのが「居巣まで来ると、兵士たちに疫病が大流行した」というところです。
病の正体の推測
居巣は長江付近です。つまり川の近くになりますね。そして川の近くの伝染病として上げられるのが、チフスという疫病です。チフスの感染源は汚染された飲み水や食物などで、特に下水設備が整っていないと引き起こされる病気です。長江の傍で水からこのチフスが広がった……とは考えられないでしょうか。
ただし水場というのは体力を奪われやすく、また遠征ということで体力が失われて免疫力、抵抗力が落ちていたと言うなら、疫病の一つであるインフルエンザも考えられます。両方とも潜伏期間もあり、人によっては症状の悪化も考えられるので、この疫病はこのチフスとインフルエンザのどちらかではないかと推測しました。そこで同じ年に流行した疫病、陳琳の死因はチフス、及びインフルエンザではないか……と考えました。
とは言えもちろんただの風邪であっても悪化すれば命を落とします。ここではあくまで考察、推測の一つとして、同じ年に流行した疫病との関連性も考えての考察に過ぎません。しかしそれでももしかしたら、この年に行われた遠征と合わせて考えるとこの二つの可能性があると思うのですが、いかがでしょうか?
三国志ライター センのひとりごと
今回は少々粗削りではありますが、陳琳の死因、その疫病の正体が何なのか考察をしてみました。調べれば調べるほど謎が残る疫病ですが、色々な要素と組み合わせると推察することは可能です。もちろんこの考察が絶対ではありませんが、水場に不慣れな魏軍なら或いは……?と思いました。皆さんもこれに限らず「疫病」とだけされている病の正体を考察してみて下さいね。
参考文献:魏書王粲伝 司馬朗伝
関連記事:【三顧の礼】演義に書かれている意味深な詩を読んでみよう!
関連記事:曹丕は七歩詩をどうして曹植へ歌わせたの?