桶狭間の戦いは常滑焼争奪戦だった!


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若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

桶狭間(おけはざま)の戦いといえば、戦国ファンに知らない人はいない戦国時代屈指の名勝負です。全国的には無名だった織田信長(おだのぶなが)が海道一の弓取りと言われた今川義元(いまがわよしもと)の大軍を兵力差を覆して奇襲で討ち取り、天下に号令する切っ掛けになりました。しかし、近年、今川義元の上洛途中に起きたと考えられていた桶狭間の戦いは上洛とは無関係であったという説が主流になってきました。では、今川義元は何の為に織田領内に入って来たのか?実は常滑焼(とこなめやき)の利権を巡る戦いだったようなのです。

 

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知多半島は常滑焼の窯が集中する工業地帯

 

日本地図を見ると、愛知県の南部分に大きく突き出た部分があります。そこは知多半島と呼ばれ常滑焼発祥(とこなめやきはっしょう)の地として有名です。常滑焼は12世紀頃から盛んになり、大型の(つぼ)(かめ)を生産する事で発展し室町時代には、現在の常滑市付近に千以上の(かま)が集中、大量生産が始まります。知多半島は常滑焼の生産地として全国区の存在になり、そこで焼かれた大量の陶器が本州、九州、四国へと販売されていきました。

 

常滑焼の主要な遺跡としては、岩手県平泉町の柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡、神奈川県鎌倉市の鎌倉遺跡、福岡県福岡市の博多遺跡などがあり、常滑焼が出ないのは、本州、九州、四国では僅かに2~3県です。それだけ常滑焼は広く日本全域に普及していていたのです。

鉄甲船

 

戦国時代に知多半島から出荷される常滑焼の運搬を担ったのは、伊勢から熊野に渡って住んでいた海民と考えられています。つまり、知多半島を抑えるだけで、当時の日本有数の工業地帯と物流能力を一挙に抑える事が出来る事になり、周辺の戦国大名は知多半島の領有を巡り互いに火花を散らしていました。


常滑焼のせいで母と別離した家康

 

若い頃の徳川家康(松平元康)

 

当時、知多半島は水野忠政(みずのただまさ)という人物が統治していましたが、常滑焼の権益を巡り各地の有力な戦国大名に囲まれていたので独立を保つのが難しく、忠政は近くの戦国大名の松平氏(まつだいら)と手を組み松平家の跡取りである松平広忠(まつだいらひろただ)に娘の於大(おだい)を嫁がせます。かくして於大が懐妊して月が満ちて生まれたのが嫡男の竹千代、後の徳川家康なのです。

 

しかし、水野忠政が死ぬと、子の水野信元は松平氏と手を切って織田信秀と結びました。悲劇だったのは於大で何の落ち度もないのに、まだ幼い竹千代を松平家に残し広忠に離縁され実家に帰されてしまいます。常滑焼の利益は後の天下人と実母を引き離してしまったんですね。

 

 

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織田vs今川知多半島争奪戦

 

いずれにせよ、織田信秀は水野信元を味方に引き入れた事で知多半島から上がる常滑焼の利益を手にする事になります。家康の悲劇など、どこ吹く風で水野氏と結んだ織田信秀は活発な知多半島の経済を握り、上洛した信秀は朝廷に四千貫、現在価値で6億円の莫大な寄付をしていますが、その財源として常滑焼の運上益は重要な位置を占めていたようです。

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

もちろん、織田信秀が握った知多半島の利権を駿河・遠江を領有する大名今川義元は指をくわえて見ているつもりはありません。三河松平氏の弱体化に乗じて三河を植民地化すると、知多半島に向けて食指を伸ばしてきました。例えば、天文十一年と天文十七年に起きた岡崎城下の小豆坂(あずきさか)の戦いは、知多半島の利権を狙っての衝突であり、信秀は義元に対抗すべく居城を古渡から末盛城に遷しています。

 

※第二次小豆坂の戦いは無かった説あり

 

しかし、三河進出の拠点だった安祥城(あんじょうじょう)を今川に落とされた事で、織田家の三河進出は頓挫(とんざ)、信秀と義元の間では和睦が成立。知多半島の利権は今川家に移りますが、信秀の死後に後を継いだ織田信長は盟約を破棄(はき)。烈しい小競り合いの末に再び水野氏は織田家に付きました。

今川義元

 

天文二十三年(1554年)一月、激怒した今川義元は岡崎城から出兵。再度知多半島を制圧すべく、水野信元の居城である緒川城の北の村木という場所に砦を築きました。これは付け城と言い、緒川城を落とす際に足がかりになる拠点でした。

三国志のモブ 反乱

 

これを知った信長は、織田家が内部分裂している状態にも関わらず援軍を出す事を決意し婚姻により(しゅうと)になっていた美濃の斎藤道三(さいとうどうさん)に援軍を要請。本拠地である那古野城の留守を任せると自身は村木砦を落とすべく出陣。両軍多大な犠牲を出しながら鉄砲を活用した信長が村木砦の今川勢を降伏させました。信長や義元が意地になり何度も争奪を繰り返す程に常滑焼がもたらす富は大きな魅力があったのです。


鳴海城、大高城の救援が桶狭間の原因だった

城攻めをするシーン(日本戦国時代)

 

村木砦で敗れた今川ですが、織田家は信長と弟の信行(のぶゆき)で勢力が分裂、内戦状態になり尾張内の勢力が動揺。それにより織田方だった鳴海城(なるみじょう)大高城(おおたかじょう)が今川に寝返ってしまいます。この二城は知多半島の通用口に位置し、ここが分断されると織田家本領と知多半島が分断される事に繋がりました。そこで信長も負けじと出兵、鳴海城には丹下、善照寺、中島砦の付け城、大高城には鷲津(わしず)丸根砦(まるねとりで)を配置。今川からの補給を遮断しました。

合戦シーン

 

これに対し、今川義元は鳴海城と大高城を救出すべく、三河の松平元康(まつだいらもとやす)を先行させて大高城に兵糧を運び込ませ、自分は二万五千の大軍を率いて織田家を踏みつぶそうと出陣したのです。そう!桶狭間の戦いは知多半島の利権を巡って引き起こされ、これを契機に今川義元は討たれて没落し、織田信長は天下へと駆け上がっていくのです。まさに桶狭間とは常滑焼戦争と言えるでしょう!多分・・

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

織田信秀は、領地としては尾張の北っぺりを支配しているに過ぎませんでしたが、津島という良港を得、知多半島の常滑焼から揚がる運上益により、東では今川義元、西では斎藤道三と互角に戦える程の勢力を持っていました。逆に言えば信長としては内部分裂でただでさえ勢力が落ちている状態で、知多半島を失うのは想像以上に厳しく、後がない状況で果断に対処した結果、偶然にも今川義元の首を獲る事に繋がったというのが桶狭間の戦いの真相であるようです。

 

参考文献:「桶狭間」は経済戦争だった 戦国史の謎は「経済」で解ける

 

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