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必見!織田信長の5つの必勝パターンを紹介

2020年1月7日


 

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南蛮胴を身に着けた織田信長

 

kawausoが考えるに、連戦連勝する人というのは自分の中に必勝パターンを持っています。逆に言えば必勝パターンとは勝利の方程式ともいえ、複雑多岐(ふくざつたき)な戦いの中に勝ちパターンを見出せるという事です。戦国の風雲児織田信長(おだのぶなが)にも、共通する5つの必勝パータンがありました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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パターン1 陣頭指揮を執り部下の戦意を鼓舞

織田信長

 

当初、弱小大名だった織田信長は、合戦において自分が陣頭指揮(じんとうしき)()る事に(こだわ)りました。勢力が弱いというのは、主君と家臣の結びつきがいまいち強くないという意味でもあり、これを払拭(ふっしょく)するには大将自らが合戦で先陣を切る必要があったのです。どんなに臆病な武士でも、男のプライドがあるので大将を突撃させて自分が逃げるという事は出来ません。勇気を奮って信長の背中を追い駆けるしかないのです。

幕末 魏呉蜀 書物

 

例えば、信長公記(しんちょうこうき)によると弘治(こうじ)二年(1556年)、八月二十四日、稲生の戦いに出陣した信長は柴田勝家(しばたかついえ)の配下の林美作守(はやしみまさかのかみ)という武将に挑み、見事に林を突き殺して首を獲ったと記録されています。また、信長は単に向こう見ずな蛮勇だけを持っていたわけではありません。信長は常に七、八百名の親衛隊に強力にガードされ、周囲が全て敵でも一度も敗れた事はないと信長公記の著者、太田牛一(おおたぎゅういち)が書いています。

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

桶狭間(おけはざま)の戦いでも、自ら先頭に立つ事で部下の不安を払拭し、それは義元の首を討って逆転勝利をつかむのに大きな影響を与えました。信長の陣頭指揮時代は尾張統一戦から美濃攻略戦までであり、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京都に入る頃には部下も指揮官として成長していたので、以後は総大将として全体を統括するようになります。

 

パターン2 敵軍を上回る人数を用意する

 

 

ヴァイキングの(ことわざ)入江(いりえ)に近いほど勇者は増える」というものがあります。入江とは海に出ていくバイキングの根拠地の事で、要は味方が多ければ誰でも勇ましくなるという事です。いささかしょぼくてセコいですが、それは偽りのない人間心理であり味方は少ないよりも多い方が心強いに決まっています。

井伊直政

 

信長はその兵士の心理をちゃんと知っていて、基本戦略としては常に敵を上回る兵力を動員していました。朝倉・浅井攻め、長篠合戦、長島や越前の一向一揆攻め、雑賀攻め、大坂本願寺攻めなどは、その典型例で、信長の戦歴としてもっとも有名な桶狭間の戦いはむしろ例外的と言えます。合戦においては大勢で一気呵成に攻めかかり、敵の士気の喪失を狙う事がよくありました。

 

一向一揆

 

しかし、長期包囲戦は苦手で、浅井攻めや長島一向一揆(いっこういっき)鎮圧では対陣中に岐阜に帰還したりしています。短気だった事もありますが、長い間大将が根拠地を離れた事による政治的な動揺を嫌った事も大きいようです。

 

織田信長スペシャル

 

パターン3 勝利後は深追いしない

鼻をほじりながら無関心な織田信長

 

信長は戦いに勝利すると、早々に引き返していき、追撃してさらに戦果を挙げるようなやり方をしなかったそうです。例えば桶狭間では義元の首を挙げるなり清須城に引き返していますし、姉川合戦や長篠合戦では、勝ちに乗じて敵の本城や領国内に侵攻しようという進言を退けていたそうです。追撃をする余裕がないという事もあったでしょうが、闇雲に戦果を拡大するよりも、細かく勝利を積み重ねていく事を重視していました。また、戦後は大勝利を喧伝して、敵勢力の動揺を誘い、内応者が出れば、素早く信長が出陣して城を陥落させるという電撃戦を行って、少しずつ敵を追い詰めていきました。

馬に乗って戦う若き織田信長

 

勝利を固定して、覆されないように着実に戦果を挙げていく信長の手法は、大勝もしないかわりに大負けもしない堅実な手法だったのです。

 

パターン4 常に武器を更新していく

火縄銃を気に入る織田信長

 

信長は戦場における武器の使い方にも敏感に対応しています。初期の織田軍団では長槍部隊を強化し、そのリーチの長さで敵を圧倒しました。領土が拡大すると鉄砲に目をつけてその大量運用で戦いにおいて優位に立ちます。鉄砲は一挺や二挺では、暗殺用具としてしか役に立ちませんが、鉄砲の扱いに熟練した大人数の足軽に持たせる事で、敵の突破攻撃を阻止する強力な武器になったからです。

鉄甲船

 

また、城攻めや海戦では、大鉄砲と呼ばれる大口径の火器を利用して効果を挙げました。第二次木津川口(きづがわぐち)の戦いで、鉄甲船に大砲を積んで村上水軍を破ったのは有名です。こうして、信長は武器を常に更新していく事でライバルに対し常に優位をキープし、必勝パターンを継続する事に成功していたのです。

 

パターン5 人材登用方法が確立していた

明智光秀を信頼する織田信長

 

織田信長の軍勢には初期段階から、旗本という禄高の大きくない側近集団が存在していました。旗本は信長の側近くで仕え、馬廻(うままわ)り衆、小姓衆、母衣衆(ほろしゅう)、弓衆に別れていてさらに母衣衆からは、赤母衣衆(あかぼろしゅう)黒母衣衆(くろぼろしゅう)という側近のエリート集団が選抜されていました。信長は、この旗本衆から戦で手柄を立てた人材を登用し、与力、あるいは部将という一軍の指揮官に取り立て、次第に巨大化する織田軍団の屋台骨を支えるようにしていたのです。

豊臣秀吉を信頼する織田信長

 

旗本から部将、与力に昇進した人材には、佐々成政(さっさなりまさ)前田利家(まえだとしいえ)川尻秀隆(かわじりひでたか)塙直政(ばんなおまさ)金森長近(かなもりながちか)中川重政(なかがわしげまさ)森蘭丸(もりらんまる)堀秀政(ほりひでまさ)等の錚々(そうそう)たる面々が並んでいます。信長は自ら率先垂範(そっせんすいはん)で戦い、それを旗本に見せる事で経験を積ませて、どんどん現場を与えて任せ、自身はその総帥として、指示を出す立場になっていきました。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

織田信長の必勝パターンをビジネスシーンで考えると、率先垂範、十分な人員の確保、いきなり大仕事を狙わず着実に小さな実績を積み重ねる、業務を効率化する機器の導入、人材登用の確立、どれも当たり前でそれは違うという経営者はいないでしょう。ですがこれら基本的な事は実際に実行するとなるとかなり大変です。その平凡で当たり前な必勝パターンを()むことなく、繰り返せるようにしたのが、織田信長の平凡にして非凡な所だったのでしょうね。

 

参考文献:歴史REAL織田信長 一族と家臣から迫る信長軍団の全貌

 

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麒麟がくる

 

 

 

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