たった一日で容赦なし戦国時代の成人式元服

2020年1月8日


 

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前回は、古代中国における成人式冠礼(かんれい)を紹介しました。この冠礼は、奈良時代以後、遣唐使(けんとうし)などの文化流入を通じて礼記(らいき)などが輸入される事で日本でも定着していきます。

 

元服をしているシーン(日本人)

 

日本における成人を元服(げんぷく)などと言いますが、元には頭という意味があり、服とは着けるという意味を持ちます。つまり元服とは「頭に着ける」であり、冠礼を言い換えたものだったのです。今回は、日本史における動乱の時代、戦国時代の成人式、元服について解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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烏帽子を被らないのは全裸より恥ずかしかった

今川義元

 

戦国時代における元服では、大人になった証として烏帽子(えぼし)をかぶる事が許されます。烏帽子というのは、絹や麻の素材で出来ていたり、紙を黒漆(くろうるし)でコーティングした帽子で、平安時代には貴族しか被っていませんでしたが、鎌倉、室町前半になると、公家から武家、庶民まで烏帽子をかぶるのが身だしなみの一つになりました。

 

鎌倉時代 服装 男女

 

当時は烏帽子を被らないのは全裸で人前に出る以下と考えられ、寝る直前まで烏帽子を被って過ごしていたようです。例えば、建保二年(1214年)に成立した東北院職人歌合絵巻には、博打で負けてフンドシまで取られた博打打ちの男が双六盤を前に、おいなりさんをチラ見させつつ、烏帽子だけはしっかり被っている様子が確認できます。ここからも、当時烏帽子が下着以上に大事な身だしなみであった事が分かるのです。

 

 

また、烏帽子を奪われる事は、非常な恥辱(ちじょく)とされ、しばしば復讐や紛争の種になりました。しかし、ここまで普及した烏帽子をかぶる習慣は室町後期になると廃れていき、再び、京都の公家だけが被る帽子になり、武家は公式行事でしか被らなくなります。

 

戦国時代の元服の手順

源義経 鎌倉時代

 

戦国時代の元服には、六人が関与していました。それは①加冠(かかん)役(烏帽子親(えぼしおや))②理髪(りはつ)役、③烏帽子役(烏帽子を持つ役)④泔杯(ゆする)の役⑤打乱箱(うちみだればこ)役、⑥鏡台并鏡(きょうだいへいきょう)役の六名です。当時、元服前の男子はポニーテールのように髪を後ろで束ねていましたので、元服では、最初に②理髪役が前髪を剃り落として月代を作ります。この時に落とした髪は紙に丁寧に包み⑤打乱箱の役の人間が持つ箱の中に収納しました。

 

次に、④泔杯の役の人間が米のとぎ汁を入れた容器を差し出し、②髪結い役が米のとぎ汁で残った髪の毛を後頭部でまとめて茶筅髷を作りました。ここで、出てくるのが最も重要な①加冠役の烏帽子親です。一般の武家では実父、あるいは上役の有力者、一族の重要人物などが引き受ける事になっていました。

 

烏帽子親は、元服する男子と疑似的な親子関係になり、後々の出世にまで影響を与えたので、有力な人物に烏帽子親を務めてもらう事は名誉な事でした。例えば、徳川家康(とくがわいえやす)の烏帽子親は今川義元(いまがわよしもと)で、その縁で家康は義元から(へんい)()をもらい、松平元康(まつだいらもとやす)と名乗っています。

 

徳川家康

 

①加冠役は、③烏帽子役から烏帽子を受け取り男子に(かぶ)せます。最期に⑥鏡台并鏡役が、男子に烏帽子をかぶった姿を見せて儀式は終了です。元服の年齢については、戦国日本では七歳から二十歳越えまで、15年程のバラつきがありました。その理由については後述します。庶民も男子は元服をしますが、六人も大人をつけられないので、月代を剃って(まげ)を結うだけと省略された儀式だったようです。

 

戦国時代の元服は初陣前のセレモニーだった

井伊直政

 

このように元服を済ませて成人する戦国時代の武士の少年ですが、ここからは大きな試練が待っていました。それが初陣(ういじん)です。戦国時代では例外は幾つかあるものの、元服を済ませてから近い間に初陣を済ませるのが習わしだったのです。

 

井伊直政

 

もっとも、元服したとはいえ、昨日まで子供だった者を殺し殺される戦場に放り込むのですから、送り込む側も慎重になりました。つまり、楽に勝てそうで危険がなるべく少ない戦場が選ばれたのです。元服を終えたばかりの少年が実戦の役に立つなど、誰も考えていませんから、せめて無事に初陣を済ませれば儲けもの、たまさか敵兵の首の一つも獲ってこようものなら、将来が楽しみだと家中で喜ばれたのです。

鉄砲隊を率いる今川義元

 

とはいえ、いかに安全な戦場と言っても、矢も鉄砲も飛んでくるような場所です。運悪く鉄砲に当たって戦死したり、手柄を得て家の人間を喜ばせようと無理をした挙句、敵に包囲され首を獲られてしまう悲しい初陣もあったのです。

 

織田信長の初陣を紹介

織田信長

 

では、有名な戦国武将の初陣はどんなものだったのでしょうか?

 

今回は戦国の風雲児、織田信長(おだのぶなが)の初陣について信長公記(しんちょうこうき)から見てみましょう。織田信長こと幼名吉法師(きっぽうし)は、天文十五年(1546年)13歳の時、林秀貞(はやしひでさだ)平手政秀(ひらてまさひで)青山与三右衛門(あおやまよざえもん)内藤勝介(ないとうかつすけ)が供をして古渡城(ふるわたりじょう)に入り、そこで元服し織田三郎信長と名乗ります。翌年、信長の初陣が決まり、平手政秀が信長の初陣の武具を揃えたと記録されています。信長の烏帽子親は分かりませんが、色々世話を焼いている点を見ると信長の烏帽子親だったのでしょうか?

馬に乗って戦う若き織田信長

 

政秀は、紅筋が入った頭巾と馬乗り羽織、それに馬鎧(うまよろい)を揃えたと記録されています。信長は駿河(するが)(今川)から軍勢が入っていた三河の吉良と大浜に出陣し、諸所に火を放ち、その日は野営して翌日に那古野城に帰ったそうです。なんだか淡々としていますが初陣なので、そんなものなのでしょう。

 

kawausoの独り言

 

今回は戦国時代の元服について解説してみました。元服によって一人前とみなされるのはもちろんですが、サムライだった場合には元服が初陣の前の儀式だった事もあり、殺し殺される戦乱の中に身を置く覚悟の儀式でもあったのです。いくら初陣は、景気づけに楽勝しそうな戦場に送られると言っても、チャンバラごっこから一転して、突然血みどろの合戦に放り込まれるのは恐怖以外の何者でもなかったでしょうね。

 

参考文献:現代語訳 信長公記

 

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命がけの成人の歴史

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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