ケンカをやめて!戦国大名の喧嘩両成敗の裏事情


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悪党(鎌倉)

 

中世の日本は完全な自力救済(じりききゅうさい)の時代でした。それは、「獄前(ごくぜん)の死人訴えなくば検断(けんだん)なし」という中世の法諺(ほうげん)にもあります。簡単に言うと、牢獄の前に死体が転がっていても訴える者がいなければ捜査は始まらないという意味で、自力救済できないと人権を守ってくれる存在は何も無いという突き放したドライな考え方です。

勢い中世日本では、私的な怨恨(えんこん)や金銭、不動産所有権に関するトラブルを喧嘩(けんか)で解決する自力救済が(まか)り通るようになります。それが一般庶民なら、殴った殴られたで血が出た骨が折れたで済みますが、武士同士の喧嘩の場合、双方が家名を懸けて喧嘩をし死人が出る騒ぎになりました。この風潮は戦国時代にも引き継がれ、各地の戦国大名は報復合戦を止めようと必死の努力を開始するのです。

 

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戦国大名は喧嘩両成敗で私闘に歯止めを掛ける

織田信長

 

この自力救済の風潮で迷惑したのは戦国大名や守護大名でした。家臣同士の喧嘩騒動から小競(こぜ)り合いが始まり、場合によっては、他家との合戦に至る事も珍しくないからです。そうでなくても、家臣同士で刃傷沙汰(にんじょうざた)になると貴重な戦力を消耗(しょうもう)した上に、今後の合戦で家臣同士に感情のしこりが残って連携がうまくいかなくなるなど大名にとり家臣同士の喧嘩、自力救済は百害あって一利なしの悪弊になっていました。

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このような経緯から戦国大名は喧嘩両成敗という法理を分国法に規定し、私的な喧嘩は最悪両者死刑という厳罰を規定するようになりますが、それにしても、各々の戦国大名と家臣の力関係はバラバラであり、様々な喧嘩両成敗の法律が生まれたのです。


守護大名大内氏と結城氏のソフトな喧嘩両成敗

 

喧嘩両成敗と言っても、大名と家臣の関係で重いモノから軽いモノまでグラデーションがありました。例えば、1459年から1495年の間に守護大名の大内氏が制定した法令集「大内氏壁書(おおうちしかべがき)」によると、米銭の貸借のトラブルから喧嘩に及べば、国中の忩劇(そうげき)(国中の騒乱)となり不忠の(やから)であると規定し、借銭、借米のトラブルは双方に罪科を処しています。

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これは、喧嘩両成敗の流れを汲むものですが、まだ両者を処刑するような厳しい内容ではありません。もうひとつ、弘治二年(1556年)に下総国結城領主の結城政勝(ゆうきまさかつ)が制定した結城氏新法度では、当事者間の喧嘩は容認しつつも、それに加勢する事は、親類縁者であろうと認めないとして喧嘩を限定的にして、被害を小さくしようとする意図が見られます。

 

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戦国大名伊達氏と六角氏のハードな両成敗

 

逆に私闘を禁止すべく、もう少し厳しい喧嘩両成敗を科しているのが東北の戦国大名伊達氏と近江の大名六角氏です。まず、伊達稙宗(だてたねむね)が制定した171条にも及ぶ分国法、塵芥集(じんかいしゅう)は、喧嘩を仕掛けた方に道理があっても仕掛けた側の落ち度にすると定めて報復感情そのものを抑止(よくし)しようとしています。また、永禄十年(1567年)に成立した六角義賢(ろっかくよしかた)義治(よしはる)父子が制定した六角氏式目では、喧嘩で父や子を討たれたとしても堪忍して六角氏に連絡するように命じ、喧嘩に及んだ場合には、攻め懸けた方に非があると定めています。

 

こちらは、一定の強制力を持つ刑罰により、喧嘩の当事者に報復を諦めさせようというハードな喧嘩両成敗です。


戦国大名今川氏の問答無用の両成敗

今川義元

 

家臣の喧嘩に対して、最も強力な喧嘩両成敗を制定したのが大永六年(1526年)に今川氏親(いまがわうじちか)が領内に発布した今川仮名目録(いまがわかなもくろく)です。今川領内においては、私的な喧嘩は一切認められず、喧嘩に及んだ場合にはいかなる同情の余地があっても双方死罪と決めています。いかにも非情な措置に見えますが、一方で喧嘩両成敗の適用範囲は騒動を起こした当事者だけに限定し、妻子や一族郎党には及ばないとしています。今川氏らしいアメとムチの政策で、自力救済を阻止(そし)しようとした様子が今川仮名目録からは窺えます。

 

喧嘩を避ける為の礼儀色々

真田丸 武田信玄

 

喧嘩沙汰(けんかざた)を避けるには、両成敗だけでは足りません。そもそもトラブルがあっても、それを大事にしないルールが必要でした。その為に戦国大名は細かい儀礼を定めて家臣同士の喧嘩を未然に防ごうとしました。例えば武田氏の事績を記した甲陽軍鑑(こうようぐんかん)には、「座敷で人や脇差を蹴ってしまった場合は、普段、仲が悪い者であっても慇懃(いんぎん)に両手をついて、三度()び、謝られた側もこれ以上は迷惑であると手を振って許す」とあります。これなどはルールなので、例え険悪な関係でも実行しないわけにはいかず、また実行してしまうと例え心がこもっていなくても、何となく双方が白けてしまい、喧嘩沙汰に発展させるのを回避する効果がありました。

幕末 魏呉蜀 書物

 

また、武田信玄の弟である武田信繁(たけだのぶしげ)が残した典厩(てんきゅう)九十九カ条には、「例え心を許した交わりでも、みだらな色欲に関する話はするな。もし話をふられたならば、目立たないようにその場を離れる事」という掟もありました。普段は兎も角、酒が入ると卑猥(ひわい)な話をする人は、一定数いるものですから、そこから発生するかも知れないトラブルを誡めているんですね。自力救済に染まり切ったプライドの高い家臣たちを統率する為に、戦国大名は、あの手この手を駆使していたのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

どうして、今川氏にこのような厳しい分国法が規定できたのかと言うと、今川氏の勢力が強大で、家臣が逆らった所で勝てる相手ではなかったという点が挙げられます。中世から、連綿と続いてきた自力救済の風潮は戦国時代の今川氏において、完全に否定されたという事が出来ますね。

 

参考文献:勝俣鎮夫「戦国法」(岩波講座 日本歴史8中世4)

「中世法制史料集」第三巻武家家法Ⅰ

「静岡県史」通史編2中世

最新研究が教えてくれるあなたの知らない戦国史

 

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【無敵の騎馬隊を率いて天下を夢見た武田信玄の生涯】
武田信玄

 

 

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