長篠の戦いで鉄砲の命中率が上昇した理由


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鉄砲隊を率いる今川義元

 

戦国時代を終わらせた新兵器として度々取り上げられる鉄砲。鉄砲の登場はサムライ同士の一騎打ちの時代を終わらせてしまい、いかに大量の鉄砲を揃えるかで戦争の勝敗が決するようになっていきます。ところが、鳴り物入りの新兵器だと思われがちな鉄砲、実際の命中率はかなり低かったらしいのです。鉄砲の命中率が低い理由と、それを補って成功した長篠の戦いの工夫について見てみましょう。

 

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鉄砲の基本スペックを考える

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

では、リアルな鉄砲の性能はどんなものなのでしょうか?

鉄砲の有効射程は、通常軍用に使用される筒で最大射程五百メートル、殺傷が可能な有効射程は二百メートルですが、人間のように動き回り狙いがつけにくい標的を狙うとなると百メートル程度まで引きつけないと命中は難しかったようです。

 

近年の実験では、人の大きさの的を三十メートルまで近づけると鉄砲は五発撃って五発と100%命中。的が五十メートルだと五発中四発命中で80%が命中します。

マラソン日本代表として走る中村勘九郎 いだてん

 

五十メートルと言われても距離感がピンと来ませんが、大体アリーナ席の中間辺りからステージの距離くらいあり、ウサイン・ボルトでも全力疾走で5秒かかります。それで80%の命中率なら鉄砲って結構優秀な気がしませんか?


命中率が高いハズがまるで当たらない鉄砲

合戦シーン

 

しかし現実には、野戦において鉄砲はまるで当たらなかったようです。混雑録(こんざつろく)という記録によると、大阪夏の陣の八尾(やお)若江(わかえ)の戦いにおいて、徳川方の藤堂高虎(とうどうたかとら)と豊臣方の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)が激突した時、双方の鉄砲足軽が撃った弾はほとんど命中しなかったようですし、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が島原の乱を体験した武士から聞いた話として、「戦場では筒が上を向いて放ってしまいがちで、鉄砲はなかなか命中しない」と書いています。

 

では、どうして鉄砲が当たらないのか?その理由について徂徠は、鉄砲足軽は簡単な鎧しか着せてもらえないので、敵の弾に被弾するのを恐れて、狙いを定められないからと記しています。徂徠はその対応策として楯の使用を勧めていますが、それを考えると、筒が上を向いてしまいがちという島原の乱の有様の状態が分かります。

kawauso

 

鉄砲足軽は一刻も早く発砲し、姿勢を低くして弾を避けようと考え腰がひけてちゃんと鉄砲を構えていないので、筒が上を向いていたのです。隠れた場所から狙撃するなら兎も角、野戦で同じく鉄砲隊と対面して撃ち合うと、双方が恐怖からまともに狙撃できなかったとは心理描写としてもリアルで納得できます。

 

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馬防柵で鉄砲足軽の恐怖心を抑えた長篠の戦い

武田騎馬軍団 馬場信春

 

さて、荻生徂徠の島原の乱聞き書きや、大坂夏の陣の藤堂vs長宗我部の鉄砲足軽同士の撃ち合いからは鉄砲隊の弱点が露呈(ろてい)しています。元々、命中率の高い鉄砲ですが、射撃する鉄砲足軽の防御が軽んじられているので、死の恐怖から落ち着いて狙撃できないのです。実は、この鉄砲足軽の弱点を補い命中率を上げて大勝利を得たのが天正三年の長篠(ながしの)の戦いでした。

幕末 魏呉蜀 書物

 

信長公記には、家康、滝川の陣の前に騎馬隊の侵入を防ぐための柵を造らせたという記述が出てきます。

この柵、騎馬隊の突撃に備えたという一面だけが強調されますが、実は守る鉄砲足軽に取っても心強いものでした。

実際に火縄銃を撃った事がある人の体験によると、

 

①弾を込めている間に遮蔽物がないと怖いが馬防柵(ばぼうさく)があると恐怖が軽減される。

②撃っていると腕が疲れるが柵の横木があると支えになって楽。

③横木に銃を固定できると命中率が上がる

 

この為に、鉄砲足軽にとって柵は必要と言っています。

火縄銃を気に入る織田信長

 

また中国の兵法書、司馬法厳位編(しばほうげんいへん)では兵士の恐怖を緩和させる方法として、両膝をついて、目線を伏せて進軍させる方法が紹介されています。

これは戦場に立つと兵士は恐怖心で立っている事も、顔を上げるのも難しくなる事を意味しています。

ましてや敵兵を狙撃する鉄砲足軽の疲労はかなりのもので、寄りかかる横木や騎兵の突撃を阻止する柵の存在がないと、命中率も下がったのでしょう。長篠の戦いでは信長が鉄砲足軽の心理を汲み取り、馬防柵を備える事で足軽の恐怖と疲労が緩和され、射撃の命中率が上ったと考えられるのです。


群衆心理を利用した信長

馬に乗って戦う若き織田信長

 

信長公記には、群衆心理を利用した戦い方の様子が見られます。

 

信長は高松山という小高い山に登り、命令するまでは決して出撃しないように全軍に命令した上で、鉄砲千挺ほどを選抜し、佐々成政(さっさなりまさ)前田利家(まえだとしいえ)野々村正成(ののむらまさなり)福富秀勝(ふくずみひでかつ)塙直政(ばんなおまさ)を指揮者として、敵陣近くまで足軽隊を攻め寄させて武田を挑発した。結果、武田勢から一番手で山県昌景(やまがたまさかげ)が陣太鼓を鳴らしながら攻め寄せて来たが鉄砲で散々に撃ちたてられて退却した。

 

馬防柵を巡らした織田方の鉄砲隊は野戦でありながら一種の砦の感覚だったのでしょう。前に、野戦における鉄砲の命中率は低かったと書きましたが、逆にしっかりした砦からの射撃の命中率は高い傾向がありました。大勢の味方が近くにいて、石垣や白壁が身を守ってくれているからです。

信長は武田勝頼(たけだかつより)を挑発して馬防柵に突撃させる事で、これを砦に攻めかかる敵軍という図式にして、鉄砲足軽に群衆心理で安心して狙撃できるように精神を安定させたとも考えられます。もしかすると鉄砲の一斉掃射より足軽のマインドの向上の方がより重要だったのかも知れません。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

従来、鉄砲については、その性能にだけ焦点が当てられ、鉄砲を使う足軽については、あまり光が当たりませんでしたが、実際に鉄砲を撃つのは足軽なわけですから、彼らの恐怖心を緩和させる事も、戦いに勝つうえで重要な要素だったでしょう。長篠合戦は野戦でありながら、馬防柵を設けて集団で鉄砲を使う事で、あたかも砦にいるような環境を生み出し、鉄砲の命中率を上げて勝利した画期的な出来事だったのです。

 

参考文献:真実の戦国時代 渡邊大門 現代語訳 信長公記

 

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【信長を討った明智光秀の波乱の生涯】
麒麟がくる

 

 

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    • 2020年 1月 10日

    福富秀勝は『 ふくとみ』ではなく『 ふくずみ』です


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