蜀(221年~263年)の炎興元年(263年)に魏(220年~265年)の鄧艾は同僚の鍾会と一緒に蜀を総攻撃します。
2人は姜維が立てこもる剣閣を攻撃しますが、姜維の抵抗は思った以上に激しかったので、鄧艾は裏道を通って成都を攻略。
劉禅は鄧艾の予想外の作戦の前に降伏を決意しました。しかし蜀を滅ぼした後の魏では壮絶な内ゲバが生じたのでした。今回は正史『三国志』をもとに蜀滅亡後の姜維と鍾会の動向について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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鄧艾に対する不満
鄧艾が蜀を滅ぼしたことに不満を持つ人物がいました。鍾会です。彼は魏の功臣である鍾繇の息子であり、幼い時から賢くて周囲から期待されているスターでした。
鍾会は鄧艾と一緒に蜀討伐に赴いたのですが、鄧艾に成都を攻略されたので手柄をとられてしまいました。まだその程度なら良かったのですが、鄧艾は占領地である蜀で勝ってな行為が多くなります。政治・経済・軍事・・・・・・様々なことに関して司馬昭の意見を求めることをせずに、独断で決めていきました。
また、言動も配慮が足りないことが多くなります。「姜維は英雄かもしれないが、私と会ったから降伏したのだよ」と言ったりして、みんなを呆れさせました。
こんなことが続くので鍾会だけではなく、一緒に従軍していた胡烈と師簒も怒ります。師簒は鄧艾と一緒に裏道から成都を攻撃した功労者でしたが、負け戦になり帰った時に鄧艾から厳しく叱責された過去がありました。
このように蜀討伐後の魏では鄧艾に対する不満が起きていました。鍾会は人の文書を真似ることが得意だったので、鄧艾のニセ報告書を作成して司馬昭に送ります。ニセ報告書の文章は傲慢であり相手を不快にさせるに十分でした。司馬昭からも返書が届きますが、これも破棄して字体だけ真似して鄧艾に送ります。
これをしばらく続けて、鄧艾と司馬昭にお互い疑念を抱かせます。その結果、鄧艾は洛陽から「逮捕」の詔勅が届きます。鄧艾は息子の鄧忠と一緒に捕縛されました。
鍾会と姜維の反乱
さて、姜維はどうしていたのでしょうか?彼は魏に投降していましたが心から降伏したわけではありません。姜維は鍾会に接近していました。姜維は鍾会が鄧艾の軍を乗っ取ったことから、おそらく彼が司馬昭の命令に従うことはない、と判断。姜維と鍾会の2人で共同出兵して魏を滅ぼす計画を立てます。
鍾会は姜維の作戦に「いいね」の太鼓判を押します。だが、邪魔なのは一緒に蜀討伐に従軍した同僚です。鍾会は胡烈や他の将軍を呼び出すと捕縛して牢屋に入れてしまいました。この時、鍾会の部下に丘建という人物がいます。彼は最初は胡烈の部下であり、また胡烈に恩がありました。恩人がひどい目にあっているのを見過ごせません。
そこで丘建は食事時間の時に、部下に様子を探らせました。丘建の部下が来てくれたので、ほっとした胡烈は鍾会が、関係無い将兵を殺害するというニセ情報を流します。話を聞いた丘建と胡淵(胡烈の子)は大慌て!
鍾会・姜維の最期・・・・・・そして鄧艾は?
武器を持った丘建と胡淵やその他の兵士は、鍾会と姜維に突撃を開始。この時、姜維と鍾会は鎧と武器を給付している最中でした。2人とも「何の騒ぎでしょうか?」という感じです。気付いた時には遅く、姜維も鍾会もあっという間に殺されてしまいました。
こうして鍾会と姜維の反乱は終了。逮捕された鄧艾も無事釈放・・・・・・とはなりません。鄧艾を逮捕して護送していた衛瓘が、鄧艾から報復されることを恐れて、釈放後にすぐに殺害してしまったのです。結局、この事件は人が死ぬだけで何も解決しませんでした。
三国志ライター 晃の独り言 ついでに殺された人もいた!?
鄧艾が殺害された時にもう1人死んだ人物がいました。それは師簒でした。鍾会と一緒に鄧艾に対して不満を抱いた人ですが、なぜか鄧艾と一緒に殺されていたのです。どうやら師簒は恩情に乏しかったらしく、部下から恨みを買っていたようです。おそらく混乱に乗じた兵士が、何か理由をつけて師簒を殺害したのでしょう。師簒の体はズタズタにされていたことから、よほど恨まれていたと分かります。しかし、この事件は誰も救われない話ですね・・・・・・
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