2020年のNHK大河ドラマ麒麟がくるの主人公、明智光秀。
彼の前半生に大きく関わる人物に美濃の戦国大名、斎藤道三がいます。父子二代で成り上がり、天文年間には美濃の守護土岐頼芸を追放して下克上を達成した道三ですが、皮肉にも息子の義龍に討たれてしまいます。では、どうして義龍は父道三を討ったのでしょうか?
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この記事の目次
義龍の父が道三ではないという話は虚構
斎藤義龍が道三を討った理由として広く知られている話に、実は義龍の実の父は道三に追放された土岐頼芸だからだというものがあります。具体的には頼芸は、手柄を立てた道三に愛妾の深芳野を譲り渡しますが、実は、この時点で深芳野は義龍を懐妊していたというものです。
しかし、この話は同時代の史料には出てきません。例えば信長公記には、
道三は義龍をボケ(耄者)と見て、次男孫四郎、三男喜平次の二人を利口と見て、三男の喜平次を一色右衛門大輔に官位を進めて溺愛した。
このように道三が義龍を無能と見て、三男を可愛がったので憤慨した義龍が病気と称して稲葉山に引きこもり、道三がびっくりして病気見舞いに孫四郎と喜平次を向かわせると、義龍は二人を殺害したので、道三は兵を挙げざる得なくなった事情を記録しています。ただ、義龍の出生の秘密についての記述はありません。
その後、江戸中期の尾張藩地理学者、松平秀雲による随筆黄耇雑録にも道三が、義龍が道三が弟達を寵愛するのを憤慨し、一計を案じて弟達を殺して挙兵した事は書かれていますが、義龍の実父が頼芸であるという話は出てきません。
一色氏を名乗った義龍
ようやく幕末になり、「岐阜軍記」という本の中に、関城主の長井隼人佐道利という人物が、君は前太守、土岐頼芸の子で道三は実父ではない。実は君の臣にあたる。その上頼芸公は道三の為に国を盗られて仇である。と義龍を唆す記述が出てきます。同時代に義龍の出生の秘密が出て来ず、それが幕末に出てくるという点に信憑性の弱さを感じます。また、義龍が道三の実子ではなく、道三が追放した頼芸の子であるという話が因果応報的であると同時に、子による父殺しをドラマティックに説明できるために広まった脚色であるようです。
ちなみに斎藤義龍は道三を討った後、室町幕府で四職家を務めた名門一色氏を名乗っています。これは美濃の成り上がり者の斎藤道三を連想させる斎藤姓を捨て、自分が土岐成頼の子孫である事を世間に印象付ける為であったとされています。このような義龍の行動が、義龍は自身を土岐頼芸の子だと思っていたという風に曲解されて、道三の実の子ではないという風聞に繋がったのかも知れません。
六角承禎条書には道三の子と記録される
また、第三者の目から義龍は道三の子であると書かれた文書もあります。永禄三年(1560年)に出された六角承禎条書がそれです。ここには、道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取ったと記述されています。この文書が書かれる少し前、土岐頼芸は道三に追放され、妻の兄弟であった六角義賢(承禎)を頼り保護されていた事もあり、ここから考えると、六角承禎条書は頼芸や頼芸の妻からの情報であると考えられます。つまり、頼芸自身が義龍は自分の子ではないと考えていたと取れるのです。
やはり当時の社会では、義龍は道三の実子であり、道三が無能の義龍を嫌い、弟に家督を継がせようとして危機感を持った義龍が道三を倒して実力で美濃の支配者になったと考えられていたのでしょう。
義龍が道三を討った動機
義龍が道三を討ったと言っても最初から義龍が道三を嫌っていたわけではありません。天文二十三年、26歳になった義龍は道三から稲葉山城を譲られ、城下に判物(証文)を出して執政を開始しますが、その頃の義龍は斎藤新九郎利尚で署名し、道三の名前であった利政を引き継ぎつつ、家押も似たものを使用しています。
ところが、家督を譲り隠居したハズの道三も、義龍が発給した判物とは別に自身も判物を出して義龍の決定を追認するような構えに出てきます。これでは、義龍はたまったものではありません。同時代を見ても、このような判物を追認する判物を発給しているのは、道三くらいしかなく、当時の美濃の有力者で、義龍が家督を譲られたと考える人はいなかったでしょう。恥をかかされた義龍の憎悪が、道三を討つという選択肢を選ばせたのです。
道三の罪滅ぼし、自ら義龍に討たれた道三
道三にとっては、近隣に織田信長という強力な戦国大名が出たのも大きかったでしょう。我が子の義龍は信長には敵わず、美濃は信長に制されるだろうと予見できても、それでも家督は義龍に譲らざるを得ない。この屈折した気持ちが、義龍に家督を譲り、自身が監督するという大御所的な発想に道三を導いたのです。
屈辱とやがて、弟たちに家督を奪われると危機感を持った義龍は、仮病を使って、弟たちを稲葉山に呼び出して殺害。直ちに兵を挙げると二万人という大軍が集まります。ここで道三は、すでに美濃の大勢が義龍に付いていた事を悟りました。道三に呼応したのは、二千名に過ぎなかったからです。ここで道三は逃げるか、戦うかの二択を迫られます。道三が選んだのは、勝ち目の薄さを推して義龍に挑む事でした。
当初、道三は、天然の要害である鶴山に陣を構えていましたが、どうしたわけか山を下りて、長良川で義龍の大軍と戦い敗死します。あるいは、内戦を長引かせて美濃が他の勢力の侵攻に曝される事を憂慮して、自ら死ぬつもりで山を下りたかも知れません。または自分の予測に反し、二万の大軍をまとめた義龍の手腕に対する罪滅ぼしの気持ちもあったのではないかとkawausoは推測します。
戦国時代ライターkawausoの独り言
斎藤義龍は信長の敵役になってしまうせいか、あまり良い描かれ方をしませんが、信長と同時期に荘園制に由来する中世的で複雑な支配体制を強権的に否定、郷単位や郡単位での知行地の再編成に着手しています。義龍は34歳で急死してしまい、治世が六年間と短期間なので評価が難しい人物ですが、道三が悲観してしまう程に凡庸な人物ではないようです。他人の評価は正確だった道三も、我が子となると、その眼が悪い意味で狂ったとすると、なんとも言えない因果を感じますね。
参考文献:斎藤道三と義龍、龍興 中世武士選書29
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