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【麒麟がくる】光秀が連歌をやったのはお金の為?

2020年1月22日


 

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お茶を楽しむ明智光秀

 

2020年のNHK大河ドラマ麒麟がくるの主人公は、天下の謀反人(むほんにん)明智光秀(あけちみつひで)です。主君を討った大悪人とされる一方で光秀が教養人であり、戦国時代に大流行していた連歌(れんが)に優れていたという評価もあります。しかし、元々は無名で窮乏生活(きゅうぼうせいかつ)をしていた光秀は、どうして連歌を詠むようになったのでしょうか?

 

そこには、お金の為という切実な事情もあったのかも知れません。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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隆盛を極めた賭け連歌

 

連歌とは和歌一首を二人で詠む遊びで、一人が五、七、五と上の句を二人目が七、七の下の句をつけます。これが基本形で、さらに下に五、七、五を付ける等して無限に続ける事が可能で一万句続けたケースもあるようです。

 

明智光秀は、本能寺の変の直前に愛宕百韻(あたごひゃくいん)と呼ばれる連歌会を催した事が分かっています。

「ときは今、雨の下しる 五月哉(さつきかな)という有名な上句が詠まれたのもこの時です。連歌は武士の一般教養として鎌倉時代には娯楽として既にあり、鎌倉幕府の軍勢が千早城の楠正成(くすのきまさしげ)を攻めている時にも、暇つぶしで詠んでいた事が分かっています。

 

城攻めをするシーン(日本戦国時代)

 

しかし、この連歌には優雅な表の顔以外に裏の顔がありました。上の句を詠んだ後に、複数の下の句を詠む形式の為、句の優劣がつけやすく、次第に点者という審判が下の句を批評して、優れた句に景品を与えるという興行の側面が強くなったのです。ここで審判として句に点数をつけたのが連歌師でした。連歌師は連歌の師として武士に連歌をレクチャーする一方で、このような賭け連歌の審判と主宰を兼ねて、日本中を飛び回り、売れっ子連歌師となるとボロい儲けを得ていました。

 

宋銭 お金と紙幣

 

すでに建武年間(1334年~1338年)の二条河原落書には、

 

京鎌倉をごちゃごちゃと、一座揃わぬニセ連歌、あっちこっちで会を催し審判にならない人はない。

 

このような落書きが登場し、賭け連歌の横行を皮肉っていました。

 

税金まで掛けられた賭け連歌

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の日記には、連歌の開かれる座敷では景品として砂金や銭、着物や扇子が山のように積まれ、連歌の参加者は、武ではなく文で景品をゲットしようと頭を絞ったと書かれていて、賭け連歌の隆盛ぶりが窺えます。室町時代の文安五年(1448年)には、東寺領の丹波大山荘で六百文(二万九千円)の課税があったようですが、これは連歌の賭け銭の分だったそうです。禁止するのではなく課税を掛ける辺りに、手のつけようがない賭け連歌の勢いを感じます。

 

 

 

連歌師として、もっとも大成したのは室町時代の連歌師の宗祇(そうぎ)です。彼は、応仁の乱後に古典復興の気運が高まったのを背景に、近衛尚道(このえひさみち)三条西実隆(さんじょうにしさねたか)のような公家や細川政元(ほしかわまさもと)のような管領畿内の有力な国人衆や周防大内氏、若狭武田氏、能登の畠山氏、越後の上杉氏などを尋ねて連歌会を開催。次々と弟子を育てた事もあり、連歌師の第一人者になりました。

 

 

宗祇は、政府の文庫の屋根瓦が傷んだので新しく()く費用として、現在価格で500万円をポンと寄付するほどに儲かっていて、その成功を嫉妬(しっと)した公家に「乞食坊主」と陰口を叩かれています。伝統的な連歌は応仁の乱を契機に全国に広まり、もちろん賭け連歌も全国拡散したのでしょう。

 

麒麟がくる

 

越前で光秀も賭け連歌をしていた?

明智光秀と煕子(麒麟がくる)

 

光秀は天文十四年(1545年)17歳で妻木煕子(つまきひろこ)と結婚、その後、何らかの事情で美濃を出て、越前国長崎称念寺前(えちぜんのくにながさきしょうねんじまえ)に住んでいたそうですが、その頃の逸話として、連歌会を開きたいが宴会費用がなく沈んでいた所、妻の煕子が自分の黒髪を切ってお金に替え光秀に渡して、無事、連歌会を開催できたというものがあります。

 

松尾芭蕉

 

これなどは、内助の功、夫婦愛を物語る逸話として、後に松尾芭蕉(まつおばしょう)「月さびよ明智が妻の話せむ」と引合いに出したほどに有名ですが、よくよく考えると、無名の光秀が多額の費用がかかる連歌会を無理に開催しようとしていた事情は何でしょう?

 

もちろん、連歌会を通して越前の名士と交流を持ちたいという野心も、情報交換をして出世の糸口にしたいという切実な願いもあったでしょうが、それ以上に、連歌会の主催者として、賭け連歌の入場料収入が欲しかったのではないかと思うのです。

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

現時点では、明智光秀が朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕えていたという記録はみつかってなく、あるのは、朝倉氏の家臣に医術を伝授したというような医者としての記録だけです。なので、光秀は家族を食べさせる為に、なりふり構っていられず、賭け連歌に参加したり自ら賭け連歌を主宰するなどして、アルバイトに余念が無かったのではないでしょうか?

 

昔取った杵柄を活かす光秀

 

頭脳明晰な光秀は、元々賭け連歌で鍛えた腕を出世してからは戦国武将として必要な教養として役に立つ事になりました。記録に残る光秀最初の連歌は、信長が足利義昭と共に上洛した永禄十一年(1568年)11月15日で、織田信長の祐筆(書記)だった明院良政(みょういんりょうせい)が、「雲に月ひかり隔てぬ霰かな」と上句を詠んだ後に六句の下句を詠んでいます。

 

明智光秀(麒麟がくる)

 

この六句というのは、下から二番目でまだまだ少ないですが、光秀は次第に上達し、ついには自らが発句人になるほどに連歌の腕を上達させるのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

もし、光秀の連歌の最初が賭け連歌だったとしたら、煕子の印象も随分変わりますね。

「あんた!ウチが髪売って銭造ってきたで、賭け連歌やりィ」

「なんやて!煕子でかした!これで正月までは銭の心配はせんでええ」

「それもこれも、みーんなウチのお陰や、あんたウチに感謝せな!」

「わかっとる!わしは出世してもお前以外にヨメはもたん」

 

なんとなく、なにわ恋しぐれみたいになってきましたが、こんな感じだったら、微笑ましくていいなと思います。

 

参考文献:日本人の給与明細 古典で読み解く物価事情

 

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織田信長スペシャル

 

 

 

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