司馬懿が推薦するも曹丕の怒りを買って死刑になった鮑勛とは何者か?

2020年1月22日


 

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鮑信と曹操

 

初平4年(193年)に曹操(そうそう)は青州黄巾軍と激しい戦いを繰り広げて勝利を得ました。しかし、この戦いで仲間である鮑信(ほうしん
)
が討ち死にします。

 

曹丕に恨まれた鮑勛(ほうくん)

 

息子の鮑勛(ほうくん)(220年~265年)の初代皇帝である曹丕(そうひ)の皇太子時代の側近になりました。彼は司馬懿(しばい)からの推薦を受けた人物でもあり、政治家としての力は持っていました。普通ならば重用されてもおかしくないのですが、鮑勛には悲劇が訪れます。今回は正史『三国志』をもとに鮑勛について紹介します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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皇太子時代の曹丕から恨みを買う

皇帝に就任した曹丕

 

鮑勛は鮑信の息子です。清廉潔白な人物で世間で名を知られていました。前述したように父の鮑信は初平4年(193年)に青州黄巾軍との戦闘で討ち死にします。父親の功績もあったのが要因なのか、建安22年(217年)に曹丕が皇太子になると、鮑勛は太子中庶子に任命されます。要するに皇太子の側近です。

 

だが長続きはしておらず、すぐに地方に転任しています。どうやら側近として仕えていた時に曹丕の言いなりにならず、トラブルになることが多かったようです。地方官となった鮑勛は、曹丕の郭夫人(後の郭皇后)の弟が、公用物の窃盗を働いていたことを突き止めます。郭夫人には郭都と郭成という弟がいますが、どちらのことを指しているのは史料は何も語っていません。

 

普通ならば死刑ですが、曹丕は曹操が留守なのをいいことに、鮑勛に対して隠ぺい工作を頼んできました。だが、鮑勛は曹丕に従いもせずに、「ありのまま」を曹操に報告しました。郭夫人の弟が死刑になったのかは史料は何も記していませんが、曹丕は鮑勛に対して怨恨を抱きます。

 

狩猟なんて馬鹿げている!

曹丕

 

延康元年(220年)に曹操はこの世を去って、曹丕が魏を建国しました。ところが曹丕は親が亡くなったのに、いきなり狩猟に行く始末。鮑勛は「現在大事なのは、軍事と農業です」と言って引き留めますが、曹丕はそのまま狩猟に出かけました。仕方ないので鮑勛はついていきます。やがて疲れた曹丕は休憩。曹丕は近くにいた劉曄に「狩猟と音楽のどっちが楽しい?」と尋ねました。劉曄は「狩猟に決まっているじゃないですか!」と答えます。

 

これに対して鮑勛は激怒。「劉曄はおべっかを使う不忠者です。曹丕様がたまたま、おっしゃったことに同調しているだけです!」それを聞いて腹を立てた曹丕は、すぐに狩猟を中止して帰りました。余談ですが劉曄は、おべっか使いではなく、ウソと本音を上手に使うタイプです。

 

劉曄が口から出す内容は、本心と正反対が多いのです。だから、劉曄は内心では鮑勛と同じ感情を曹丕に抱いていたと考えられます。後年、劉曄はこの癖を曹叡に見破られて失脚しました。

 

鮑勛疑獄事件

 

魏の黄初4年(223年)に陳羣と司馬懿は鮑勛を御史中丞に任命すること曹丕に推薦。イラっときた曹丕でしたが、皇太子時代からの友人である2人の頼みなので仕方なく引き受けました。だが、任命すれば早速、鮑勛は曹丕が計画した呉(222年~280年)への遠征に反対しする始末。前にも増して腹を立てた曹丕は、鮑勛を御史中丞の次官である治書執法に降格しました。

 

結局、呉の遠征は大した成果も上がらずに終わることになります。帰還の途中に陳留郡に立ち寄った曹丕に太守の孫邕が謁見します。孫邕は魏軍の陣が完成していなかったので、決まったルートを通らずに曹丕に会いにいきます。どうやら皇帝に会う時は、ちゃんとしたルートを通る決まりがあったようです。面倒ですね・・・・・・

 

洛陽帰還後に孫邕の怠慢行為が発覚。曹丕は処罰するつもりでいました。ところが、鮑勛は「陣が完成する前なので、処罰の必要はない」と言って反対。ここで曹丕の長年蓄積されていた怒りが爆発。鮑勛は逮捕されました。裁判にかけられた鮑勛は懲役5年という人もいれば、罰金刑と判決する人もいました。

 

当然、判決を不服とするのは曹丕。「鮑勛なんて生かす必要無い!」と怒りがおさまりません。陳羣華歆鍾繇・衛臻(えいしん)・高柔・辛毗は死刑に反対しますが、曹丕は「絶対に殺す!」と譲りません。結局、黄初7年(226年)に鮑勛は処刑されました。享年不明。

 

曹丕はその20日後にこの世を去りました。

 

三国志ライター 晃の独り言 曹丕が恐れたもの

三国志ライター 晃

 

この鮑勛疑獄事件は調べると人的関係が複雑でした。まず事件の発端となった孫邕という人物は、盧毓(ろいく)から推薦をもらっています。盧毓は盧植の子です。また、鮑勛死刑に反対した陳羣・華歆・鍾繇・衛臻・高柔・辛毗について調べると、陳羣・鍾繇・辛毗は同郷関係。

 

辛毗の娘は「三国無双」シリーズで有名な辛憲英。彼女は後漢(25年~220年)末期の清流派官僚である羊続の子に嫁いでいる。さらに、陳羣の祖父である陳寔(ちんしょく)と華歆は友人関係でした。高柔は若年にして王脩により才能を認められた人物。王脩は鄭玄の弟子であり、孔融との関係があります。ちなみに孔融は陳羣の父の陳紀と友人です。衛臻は曹操が董卓討伐の時に資金提供をした衛茲の子。衛茲は清流派の郭泰に認められた人物でした。

 

また、死刑になった鮑勛も儒学を修めている家系なので清流派出身と分かります。つまり、魏の建国当初は後漢末期の清流派官僚の子・弟子・孫弟子などが、たくさんいたのです。党錮の禁から100年も経過していないので、たくさんいてもおかしくないのですが、曹丕にとっては大問題でした。曹丕は彼らが横の繋がりを持って、自分に盾突くことを恐れたのでしょう。おそらく、鮑勛の死は清流派官僚子孫への見せしめの1つと考えてもおかしくありません。

 

※参考文献

・佐藤達郎「曹魏文・明帝期の政界と名族層の動向:陳羣・司馬懿を中心に」(『東洋史研究』52―1 1993年)

 

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曹操孟徳

 

 

 

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