三国志、三国志演義では数多くの武将や文官たちが出てきては、綺羅星のように煌めいて生涯を終えていきます。その生涯の終え方、死因は様々で、討ち死にもあれば病死という最期を迎える人物もいますね。
そんな人物たちの中から、今回注目したのは法正です。劉備に漢中を取ることを進言し、そして見事達成させ、しかしその後病死してしまう法正。あくまで病死としか書かれていない法正ですが、それではやや曖昧過ぎる。
そこで「病死」としか書かれていないその死因をもっと詳しく考察してみよう、というのが今回の目的です。
「法正 死因」
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法正の死は漢中戦後
さてまずは法正の死因について、再確認しておきましょう。劉備に蜀という天下への足掛かりを作った後に、魏の曹操と対立する上で漢中の奪取が必要であると進言します。この時に曹操は漢中を手に入れていましたが、その漢中は蜀から見ると北の入り口地点。
つまりいつ北から攻撃されるかもしれない場所に曹操の軍が置かれているのです。法正は蜀の奪取の後は曹操軍の動きを探り続け、そして入念な準備の下で漢中奪取を進言。漢中でも激戦を支え続け、時には意固地になる劉備の矢面に立って説得するなどをして見事、漢中を劉備に手に入れさせます。
この地を手に入れたことで劉備はその後スムーズに「漢中王」を名乗れるようになりますが、その後に法正は病死してしまいます。劉備は法正の死を悲しみ、諡号を送るほどだったと言います。
ここで妄想される「一つの死因」
さて法正の死ですが、建安24年(219年)に漢中に攻め込み勝利、その後の翌年25年(220年)に病死したとされています。また法正には定軍山での戦いで劉備と曹操が対峙した際に、劉備に矢が飛んできた時に退却を進言するも劉備が聞き入れず、劉備を庇うように矢面に立って劉備に冷静さを取り戻させ退却させたという逸話が残っています。
ここから法正の一つの死因として、この際に矢傷を受け、それが悪化した……ということが想像されます。もしかしたら劉備のために受けた傷、ということを記すことを忌避したのかもしれませんね。これが法正の死因として、考えられる一つです。
では次に、少し漢中攻略までをおさらいしましょう。
漢中までの法正の道のり
前提として法正は蜀、益州に劉備を招き入れました。劉備に蜀の地を取らせた一人者であることは間違いありません。そして益州制圧二年後、法正は漢中攻略を進言します。この際に法正は「漢中を取った後にすぐに曹操は攻めてくるかと思った。しかし夏侯淵たちに守備を任せて帰ってしまった。曹操の性格上何か問題が出たのだろう。こちらからしかけるべきだ」という意見を述べています。
その後は漢中で曹休相手に苦戦するも、張コウを苦戦に追い込み、黄忠に策を授けて伏兵として仕込み、夏侯淵を撃破。ここでも法正は敵である夏侯淵が速攻、急襲戦を得意としていることから、突出しやすい性格を読んで行動していました。恐らくこれらを全て最初から知っていたのではなく、二年間の間に敵を分析して攻略を考えていたのでしょう。漢中の勝利には法正の綿密な性格があってのことと思います。そしてここから、もう一つの死因が考えられます。
もう一つ考えられる法正の死因は
その死因とはずばり「過労」です。言ってしまうと過労死、蜀取り、漢中攻め、気を張り詰めて劉備のために激務を重ねすぎた法正は、地盤が落ち着いたこともあって今までの疲れが一気に紛失したのではないでしょうか。むしろ気を張っていたからこそここまで持っていたのかもしれません。
やっと劉備の居場所が盤石化した、そう思って切り詰めた緊張の糸が切れ、今まで重ねすぎた無理が一気に襲い掛かり……というのはないことではないと思います。こちらで考えると法正の死はただの病死というだけではなく、安堵からの最期になったのでは、と筆者は思います。そう思うと法正の死は満たされた最期だったのか、とも考えてしまいますね。
三国志ライター センのひとりごと
今回は法正の死因について、色々と妄想してみました。諸葛亮もそうですが、文官といえども当時は激務、時に戦で直接戦う武人たちよりもその疲労とストレスによって命を縮めている者たちも少なくはなかったのかもしれません。
主に天下を取らせるために戦っている者たちには違いなどなかったのでしょう。三国志の時代、誰もが戦っていた……そう考えると切ないものがありますが、それでも劉備に蜀と漢中を手に入れさせてから亡くなった法正の最期はどうだったのでしょうか。
満たされていたのか、まだまだ先を主と共に見たかったのか……皆さんは、どう思いますか?
参考文献:蜀書法正伝
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