皆さんは、いだてん総集編の後に10分間放送された麒麟がくるの予告放送を御覧になりましたか?
そこでは、NHK大河ドラマ史上、もっともカッコよく色気さえ漂う本木雅弘扮する斎藤道三が、「戦は数ではない事を教えてやる」と言うや、号令を掛け、織田信秀の軍勢を打ち破るシーンが描かれていました。今回は、美濃のマムシの面目躍如となった加納口の戦いを簡単に紹介します。
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この記事の目次
美濃のマムシ土岐頼武を追放し土岐頼芸を国主に据える
天文十三年、斎藤道三と土岐頼芸は、兄にあたる土岐頼武を追放しました。この兄弟の確執は、先代の美濃守護である土岐政房が嫡男である頼武より末弟の頼芸を偏愛して家督を継がせようとした事がそもそもの始まりです。
道三は末子の頼芸を盛り立て武力で頼武を美濃から追放しますが、これに対し頼武は正室の実家である越前朝倉氏を頼ります。これに対し、尾張守護の斯波義統も美濃に介入する事を表明し、織田信秀に対して頼武を助けて美濃に攻めこむように命じました。越前の朝倉氏にしても尾張の織田氏にしても、主君筋の土岐頼武を追放した美濃のマムシを討伐するのは大義名分が立ち、また領土拡張が見込めるので乗り気になったようです。
事実上は織田信秀軍だった尾張軍
名目上は、斯波義統が命令を出した形でしたが、事実上の尾張の実力者は織田信秀でした。天文十三年に信秀は、尾張国衆の支援を受けて二万五千という大軍を集めて、9月3日に美濃に向かって進撃します。同時に示し合わせていた朝倉宗滴が越前方面から美濃へ侵攻、9月19日には大垣城まで攻め入っています。
織田軍は信秀主導でしたが、名目的な大将は尾張上郡・岩倉の守護一族で織田寛近でした。そして、総大将は名目上斯波義統であり信秀は階級では下っ端の下っ端に過ぎません。実際に土岐頼武からの書状には、織田大和守の名前はあっても、織田信秀の名は出て来ません。
稲葉山城まで織田軍を引きつけて一斉撃破
信秀の尾張連合軍は、当時の主要街道である鎌倉街道を進み、黒田あたりで黒田川を渡り、北の境川を渡河して美濃に侵攻し、茜部あたりに火をつけ北に向かい、九月二十二日加納から稲葉山城下の井ノ口へ攻め寄せます。
しかし、ここまでは道三の作戦でした。すでに信秀の連合軍が寄せ集めで統率が取れないのを見越した道三は、途中で逃げられないように信秀軍を稲葉山の奥地に誘い込むと、自身は稲葉山城に閉じこもったのです。稲葉山城は堅城であり、信秀は日没前に不安を感じて軍勢の半分に退却を命じます。
道三はこれを見逃さず、退却で浮足だった尾張連合軍に突撃を開始します。信秀は何とか踏みとどまろうとしますが、寄せ集めの尾張勢では、戦慣れした道三の軍勢の敵ではなく、信長公記の記述によると、信秀は五千名の戦死者を出し、弟の織田信康や、家老の青山与三右衛門、熱田神宮大宮司の千秋季光など重要な部将が戦死しました。
信秀と道三が激突した橿森神社
道三が退却する織田軍と交戦したのは橿森神社と推定されていて、そこは岐阜市美園町の美園市場です。この西側一帯は道三が開いた楽市のあった広場で、織田軍の戦死者を弔うための織田塚という墓が存在します。実際に、この戦いで戦死した人物については、斎藤道三が書状で、
佐久間藤十郎・・・竹腰次郎兵衛が討つ
頭一つ・・・・・・徳田又八が討つ
織田新十郎・・・・岸孫四郎が討つ
尾州衆・・・・・・数百人
等という記録が出ているようで、五千人はオーバーとしても数百人が死んだという事はあったのかも知れません。また道三の側について、大勢の戦死者を出し、自身も傷を受けた摂津方面の国人、木沢左馬充に対して、道三が丁重に礼を述べている書状もあり、そこには、改めて美濃守(頼芸)より書礼が届くと書かれています。
そればかりでなく、道三は戦争の結果を細かく、知多の水野氏に書状で報告しています。当時の水野氏は信秀についていたので、水野氏に信秀の勢力の減退を見せて、今川氏と手を結ばせるつもりだったのかも知れません。
加納口の戦いが斎藤と織田を結び付けた
加納口で大敗した織田信秀は犬山城の織田信清に叛かれたり、三河の松平氏が今川氏にくっついたり、本家筋に当たる清須織田家が信秀から離反するなど、尾張での内乱が騒がしくなります。一方の道三も、1552年には、主君土岐頼芸を大桑城に包囲して破り国外追放して下克上を果たしますが、頼芸が信秀に付く可能性があるなどで国内が不安定になります。
ここで両者は歩み寄る事になり、1548年に信秀の嫡男信長と道三の娘の帰蝶が縁組する事で、尾濃同盟が締結される事になります。
戦国時代ライターkawausoの独り言
麒麟がくるでは、斎藤道三と織田信秀の激突になるでしょう。戦いがあった天文十三年は、明智光秀十六歳なので、大きな戦は加納口の戦いが最初という事になると思います。斎藤道三の戦の冴えを見る若き明智光秀という図式になるのでしょうか?
ただ、織田信長は、同年には十歳なので、さすがに登場しないかも知れませんね。
参考文献:中世武士選書 斎藤道三と義龍、龍興
参考文献:オールカラーでわかりやすい戦国史
参考文献:現代語訳 信長公記
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