美濃のマムシと呼ばれ、主君の毒殺、追放、家の乗っ取りなどあらゆる悪事を尽くして美濃一国の領主になった斎藤道三。そんな彼は独裁的な手法で美濃国人衆の恨みを買い、織り合いが悪かった息子の義龍に叛かれて哀れな末路を迎えたと言われています。しかし、道三の生涯を見てみると、これまでの評価とは正反対で、道三は戦が嫌いだったからこそ、滅びの道を歩んだ事が見えてきました。
関連記事:【麒麟がくる】斎藤四代美濃のマムシの系譜を簡単紹介
この記事の目次
【麒麟がくる】どうして道三は陰謀を好んだか?
斎藤道三のイメージの陰湿さは、権力掌握において策謀が多い事があります。最初に、自分を引き立ててくれた長井氏を行跡の悪さを理由に族滅に追いやったのを皮切りに、守護代の斎藤家を乗っ取って相続し、次に守護の土岐頼芸の弟の頼満を毒殺し、遂には、美濃守護職の土岐頼芸を追放して下克上を完成させます。
その後、土岐頼芸が一族の土岐頼純と共闘し越前朝倉氏や尾張の織田氏の後援を受けて巻き返すと、一度は受け入れておき織田家と和睦すると、頼芸を追放したり、頼純を毒殺するなどして排除しています。
まさに悪辣であり、当時の落首にも、
主をきり 婿を殺すは身のおはり 昔はおさだ今は山城(道三は山城守)
このように批判され、ろくな死に方をしないぞと思われていました。しかし、逆に言うと、大勢の犠牲者が出る合戦を避けたからこそ、道三は策謀を重視し、毒殺、追放のような陰湿な手段を取ったとも言えます。孫子が説くように戦争は最期の手段と捉えていたのです。
【麒麟がくる】国人衆を整理しなかった道三
守護の土岐氏に対する過酷な対応や、土岐氏を支援して美濃に攻めこんでくる、織田家や朝倉家に対する合戦と比較し、斎藤道三は、自分と同様の国人衆に対して、大掛かりな戦争を仕掛けた様子がありません。例えば、斎藤氏の重臣として知られる。西美濃四人衆の安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全、不破光治に対して、道三が戦争を仕掛けたり、圧迫したりした様子はありません。僅かに、土岐頼芸について、道三に抵抗していた長屋景興や土岐氏の庶流である揖斐光親を滅ぼしただけです。
だからと言って、この西美濃四人衆が道三に従順であったかと言えば、そうではなく、道三と義龍の戦いでは全員が義龍についています。明智氏や石谷氏ように、道三を見捨てなかった国衆もいたようですがわずかにすぎませんでした。これを見ると、成り上がり者だった道三は、自分の権力基盤を固める為に有力な国人衆を粛清して弱体化させるという事には消極的だったようです。
それでも曲りなりにも、土岐氏が守護の地位にいる間は、国人衆は道三に忠誠を誓っていましたが、道三が土岐氏を守護から追放して実権を握った後には、不穏分子の動きが絶えず、苛ついた道三は、微罪の罪人でも、牛裂きや釜茹での刑にするなど恐怖政治を敷き、それが余計に国人衆の支持を失わせ、義龍のクーデターの遠因になりました。
【麒麟がくる】徹底して反対勢力を潰した織田信長
国人衆に対して強硬な措置が取れなかった道三に対して、婿にあたる織田信長は正反対な領国運営をしています。
父である織田信秀が上司である織田大和守家の造反に苦しめられた経験を見た事から、守護の斯波氏を上に置いて権威で何とかするという穏健方法を取らず、逆らう勢力は力でぶっ潰すという喧嘩上等の強硬的な手法を取ったのです。
天文二十一年(1552年)に家督を相続したのを皮切りに、信長は萱津の戦いで織田大和守家と激突。天文二十三年には、守護代の織田信友を自害に追い込み、永禄二年(1559年)には、もう一つの守護代、織田伊勢守家の織田信賢を滅ぼしています。そればかりではなく、信長は自分に敵対した弟の織田信勝も稲生の戦いで破って、その後殺害するなど、織田家当主としての権限を強化しています。
このように、国人衆とは強調していた道三とは対照的に信長は領主を継いでより、血で血を洗う同族同士の争いを繰り返し、その代償に尾張における権力基盤を強化しました。それにより、桶狭間の戦いの頃までには、上司の織田伊勢守家も織田大和守家も滅ぼしています。もし、信長が道三のような協調路線を取っていたら、桶狭間では次々に国衆が今川義元についてしまい勝利できなかったかも知れません。
【麒麟がくる】乗っ取るという形式が弱さになった道三
斎藤道三は父子二代で美濃を乗っ取りましたが、元々油売りだった為に、一から家を興していくよりは、良家に養子として入り込んで乗っ取っていく事が合理的でした。しかし、それは性質上乗っ取る家以外の国人衆とは良好な関係を築く必要があり徹底して敵対者を潰すというやり方は取りにくいと言えます。
一方で国衆の道三に対する不満の受け皿として父殺しに成功して美濃を支配した義龍は、道三の独裁的な手法を廃止して、国人衆の意見を取り入れる合議制を再開し室町時代の秩序に回帰する様子を見せつつも、貫高制を導入して国人衆に対し、領地に応じた軍役を課す事を義務付けるなどして、主家である斎藤家の支配体制に国人衆を取り込んでいく、中央集権的な政策も採用しています。
さすがに道三の息子として、そのやりようの欠点を見ていた義龍は合議制を取り入れて、国人衆の不満を解消すると同時に、国人衆が好き勝手出来ないように、貫高制を導入して軍役を固定して課して、自由に行動できないようなアメとムチの政策を取ったのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
一見すると戦争に彩られた斎藤道三の国盗りですが、実際には道三から仕掛けた戦は少なく、守護の土岐家を追放したリアクションとして織田家や朝倉家が土岐氏を擁護して攻めてくるという防衛戦争が主になっています。逆に国内の国人衆とは、守護土岐家を形式的に上に立てる事で波風を起こさずに、事実上の守護の地位で満足するという穏健路線を取っている事が分かります。
ところが、それは土岐氏の権威に依存する関係であるがゆえに道三が土岐氏を追放すると、すぐに国人衆の不満の噴出と言う形で問題になりました。信長のように、国人衆を敵味方で分け反対派は滅ぼして領地を没収するようなハードな領地経営をしていれば、斎藤道三は美濃一国の領主では終わらなかったかも知れません。
関連記事:斎藤義龍は道三の実の息子!道三を討った本当の理由は?
関連記事:明智光秀は斎藤道三がいなければ歴史に名前が刻まれなかった?その理由は?