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【麒麟がくる】斎藤道三が滅んだのは戦争嫌いだったから!

2020年2月3日


 

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斎藤道三

 

美濃(みの)のマムシと呼ばれ、主君の毒殺、追放、家の乗っ取りなどあらゆる悪事を尽くして美濃一国の領主になった斎藤道三(さいとうどうさん)。そんな彼は独裁的な手法で美濃国人衆(こくじんしゅう)の恨みを買い、織り合いが悪かった息子の義龍(よしたつ)に叛かれて哀れな末路を迎えたと言われています。しかし、道三の生涯を見てみると、これまでの評価とは正反対で、道三は戦が嫌いだったからこそ、滅びの道を歩んだ事が見えてきました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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【麒麟がくる】どうして道三は陰謀を好んだか?

水滸伝って何? 書類や本

 

斎藤道三のイメージの陰湿さは、権力掌握において策謀が多い事があります。最初に、自分を引き立ててくれた長井氏(ながいし)行跡(ぎょうせき)の悪さを理由に族滅(ぞくめつ)に追いやったのを皮切りに、守護代の斎藤家を乗っ取って相続し、次に守護の土岐頼芸(ときよりなり)の弟の頼満(よりみつ)を毒殺し、遂には、美濃守護職の土岐頼芸を追放して下克上(げこくじょう)を完成させます。

 

土岐頼芸

 

その後、土岐頼芸が一族の土岐頼純(ときよりずみ)と共闘し越前朝倉氏や尾張の織田氏の後援を受けて巻き返すと、一度は受け入れておき織田家と和睦すると、頼芸を追放したり、頼純を毒殺するなどして排除しています。

ヤマタノオロチ(古事記)

 

まさに悪辣(あくらつ)であり、当時の落首(らくしゅ)にも、

(あるじ)をきり 婿(むこ)を殺すは身のおはり 昔はおさだ今は山城(やましろ)(道三は山城守)

このように批判され、ろくな死に方をしないぞと思われていました。しかし、逆に言うと、大勢の犠牲者が出る合戦を避けたからこそ、道三は策謀を重視し、毒殺、追放のような陰湿な手段を取ったとも言えます。孫子が説くように戦争は最期の手段と捉えていたのです。

 

【麒麟がくる】国人衆を整理しなかった道三

日本戦国時代の鎧(武士)

 

守護の土岐氏に対する過酷な対応や、土岐氏を支援して美濃に攻めこんでくる、織田家や朝倉家に対する合戦と比較し、斎藤道三は、自分と同様の国人衆に対して、大掛かりな戦争を仕掛けた様子がありません。例えば、斎藤氏の重臣として知られる。西美濃四人衆の安藤守就(あんどうもりなり)稲葉一鉄(いなばいってつ)氏家卜全(うじいえぼくぜん)不破光治(ふわみつはる)に対して、道三が戦争を仕掛けたり、圧迫したりした様子はありません。僅かに、土岐頼芸について、道三に抵抗していた長屋景興(ながやかげおき)や土岐氏の庶流である揖斐光親(いびみつちか)を滅ぼしただけです。

城攻めをするシーン(日本戦国時代)

 

だからと言って、この西美濃四人衆が道三に従順であったかと言えば、そうではなく、道三と義龍の戦いでは全員が義龍についています。明智氏や石谷氏ように、道三を見捨てなかった国衆もいたようですがわずかにすぎませんでした。これを見ると、成り上がり者だった道三は、自分の権力基盤を固める為に有力な国人衆を粛清して弱体化させるという事には消極的だったようです。

斎藤義龍(麒麟がくる)

 

それでも曲りなりにも、土岐氏が守護の地位にいる間は、国人衆は道三に忠誠を誓っていましたが、道三が土岐氏を守護から追放して実権を握った後には、不穏分子の動きが絶えず、(いら)ついた道三は、微罪の罪人でも、牛裂(うしさ)きや釜茹(かまゆ)での刑にするなど恐怖政治を敷き、それが余計に国人衆の支持を失わせ、義龍のクーデターの遠因になりました。

 

麒麟がくる

 

【麒麟がくる】徹底して反対勢力を潰した織田信長

織田信長

 

国人衆に対して強硬な措置が取れなかった道三に対して、婿(むこ)にあたる織田信長は正反対な領国運営をしています。

 

織田信秀(おだのぶひで)は信長のお父さん

 

父である織田信秀(おだのぶひで)が上司である織田大和守家(おだやまとのかみけ)の造反に苦しめられた経験を見た事から、守護の斯波氏(しばし)を上に置いて権威で何とかするという穏健方法を取らず、逆らう勢力は力でぶっ潰すという喧嘩上等(けんかじょうとう)の強硬的な手法を取ったのです。

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

天文二十一年(1552年)に家督を相続したのを皮切りに、信長は萱津(かやつ)の戦いで織田大和守家と激突。天文二十三年には、守護代の織田信友(おだのぶとも)を自害に追い込み、永禄二年(1559年)には、もう一つの守護代、織田伊勢守家(おだいせのかみけ)織田信賢(おだのぶかた)を滅ぼしています。そればかりではなく、信長は自分に敵対した弟の織田信勝(おだのぶかつ)稲生(いなお)の戦いで破って、その後殺害するなど、織田家当主としての権限を強化しています。

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

このように、国人衆とは強調していた道三とは対照的に信長は領主を継いでより、血で血を洗う同族同士の争いを繰り返し、その代償に尾張における権力基盤を強化しました。それにより、桶狭間(おけはざま)の戦いの頃までには、上司の織田伊勢守家も織田大和守家も滅ぼしています。もし、信長が道三のような協調路線を取っていたら、桶狭間では次々に国衆が今川義元についてしまい勝利できなかったかも知れません。

 

【麒麟がくる】乗っ取るという形式が弱さになった道三

ドケチな斎藤道三

 

斎藤道三は父子二代で美濃を乗っ取りましたが、元々油売りだった為に、一から家を興していくよりは、良家に養子として入り込んで乗っ取っていく事が合理的でした。しかし、それは性質上乗っ取る家以外の国人衆とは良好な関係を築く必要があり徹底して敵対者を潰すというやり方は取りにくいと言えます。

 

一方で国衆の道三に対する不満の受け皿として父殺しに成功して美濃を支配した義龍は、道三の独裁的な手法を廃止して、国人衆の意見を取り入れる合議制を再開し室町時代の秩序に回帰する様子を見せつつも、貫高制(かんだかせい)を導入して国人衆に対し、領地に応じた軍役を課す事を義務付けるなどして、主家である斎藤家の支配体制に国人衆を取り込んでいく、中央集権的な政策も採用しています。

 

さすがに道三の息子として、そのやりようの欠点を見ていた義龍は合議制を取り入れて、国人衆の不満を解消すると同時に、国人衆が好き勝手出来ないように、貫高制を導入して軍役を固定して課して、自由に行動できないようなアメとムチの政策を取ったのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

一見すると戦争に彩られた斎藤道三の国盗りですが、実際には道三から仕掛けた戦は少なく、守護の土岐家を追放したリアクションとして織田家や朝倉家が土岐氏を擁護して攻めてくるという防衛戦争が主になっています。逆に国内の国人衆とは、守護土岐家を形式的に上に立てる事で波風を起こさずに、事実上の守護の地位で満足するという穏健路線を取っている事が分かります。

 

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

ところが、それは土岐氏の権威に依存する関係であるがゆえに道三が土岐氏を追放すると、すぐに国人衆の不満の噴出と言う形で問題になりました。信長のように、国人衆を敵味方で分け反対派は滅ぼして領地を没収するようなハードな領地経営をしていれば、斎藤道三は美濃一国の領主では終わらなかったかも知れません。

 

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織田信長スペシャル

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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