劉禅に仕えた宦官黄皓のダチ友は誰だ?


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黄皓

 

蜀(221年~263年)の第2代皇帝である劉禅(りゅうぜん)宦官(かんがん)黄皓(こうこう
)
がお気に入りの家臣でした。宦官とは男性器を切り落として宮中に仕える独特な官職です。

 

北伐したくてたまらない姜維

 

黄皓は魏(220年~265年)を北伐することに熱心であった姜維(きょうい)と不仲で有名でした。黄皓自身も姜維の北伐に反対していました。この黄皓には同調者がいたのです。今回は黄皓と一緒に姜維の北伐に反対した人物を解説します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています

 

自称・皇帝
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閻宇 姜維と交代しようと画策

 

閻宇(えんう)は荊州南郡の出身です。詳細な経歴は不明ですが長年に渡って業績を挙げて職務にも熱心な人物でした。ただし、地方官としての威厳は馬忠(ばちゅう)(蜀の将軍)には及ばなかったそうです。

 

蜀の姜維

 

景耀5年(262年)に姜維は4年振りに北伐を行う決意を固めます。北伐はオリンピックかワールドカップですか?正直言うと、蜀はすでに内外がガタガタであり、戦争なんて出来る状態ではありません。そこで黄皓は閻宇に姜維と交代することを頼みます。閻宇は黄皓とタッグを組んで姜維と交代することをしました。しかし、命の危険を感じた姜維は戻ってきませんでした。結局、この交代事件は失敗したのです。炎興元年(263年)に蜀は滅亡して閻宇は降伏しました。その後の消息は不明です。


董厥 黄皓と親しい官僚

 

董厥(とうけつ
)
は思慮深い性格であったことから諸葛亮(しょかつりょう)に抜擢された人物でした。諸葛亮・蔣琬(しょうえん)費禕(ひい)の死後、劉禅の寵臣である陳祗(ちんし)が寵愛を受けて国政を握ります。陳祗は若き日は厳粛な人物として評価を受けていましたが、昇進するにつれて主君に媚びへつらう悪質な本性を現しました。陳祗のもとで台頭したのが宦官の黄皓です。

 

董厥は陳祗の部下として育ちました。やがて陳祗が亡くなると、今度は董厥が台頭して陳祗と親しかった黄皓と交わりを結びます。そして前述した姜維の交代事件が発生しました。この時、黄皓と親しかった董厥は同調して諸葛亮の息子である諸葛瞻(しょかつせん)と一緒に姜維の軍権を剝奪して左遷することを提案します。結果は姜維が戻らなかったので不成功に終わります。炎興元年(263年)の董厥は降伏。その後の消息は不明です。


諸葛瞻 絵に描いたようなお坊ちゃん

諸葛瞻

 

諸葛瞻は諸葛亮の息子です。幼い時から利口・記憶力が良く、書画が得意でした。だが諸葛亮は、「利口なので早熟してしまい、大成しない可能性がある」と兄の諸葛瑾に手紙で打ち明けていました。

 

親の威光のおかげで、とんとん拍子に出世していき、劉禅の娘を妻にもらいます。つまり、諸葛瞻と劉禅は外戚(=皇帝の親戚)です。ところが蜀では、ちょっとめでたい現象や政治があると「諸葛瞻のおかげだ」、「あれは諸葛瞻がやってくれたのだ」と人々は騒いでいました。

 

つまり政治・軍事に関して実力があったのか怪しい人物だったのです。意外かもしれませんが、この人は姜維反対派のメンバーです。姜維はオヤジが見つけてきた人材なのに・・・・・・

 

諸葛瞻の政治仲間は先ほど紹介した董厥でした。景耀4年(261年)諸葛瞻は董厥と一緒に政治の実権を握ります。そして先ほどから何度も紹介している姜維交代事件では董厥と一緒に閻宇を支持。姜維の左遷を画策しました。

 

鄧艾と全面対決で敗れて亡くなる諸葛瞻

 

炎興元年(263年)に魏の鄧艾(とうがい)に攻め込まれると、諸葛瞻は鄧艾(とうがい)から降伏勧告を受けます。しかし諸葛瞻はこれを拒否して、使者を斬り捨てました。そして魏軍と衝突して戦死しました。享年37歳。息子の諸葛尚も父の死を聞くと、魏軍に突撃して戦死します。


三国志ライター 晃の独り言 諸葛瞻の人物像は陳寿の歪曲?

三国志ライター 晃

 

以上が黄皓と結託した閻宇・董厥・諸葛瞻についての解説でした。一説によると諸葛瞻の人物像は歪曲された人物像と言われています。正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた『異同記』(別名:『異同雑記』、『雑記』)によると、かつて蜀に仕えていた常璩という人物が面白い話を残しています。

 

常璩が蜀の長老から聞いた話によると陳寿はかつて諸葛瞻の部下だった時、何か分かりませんが諸葛瞻から恥をかかされたようです。そのことを恨んだ陳寿は正史『三国志』を執筆する時に、諸葛瞻の人物像を歪曲したとのことでした。

 

もちろん常璩が他人から聞いた話なので史料の信ぴょう性は問われます。ただし、ウソとも言い切れません。陳寿が恨んでいたのは諸葛瞻ではなく諸葛亮の可能性が高いです。陳寿の父は馬謖が敗北した街亭の戦いに出陣していました。

 

馬謖が死罪になった時に陳寿の父は髪を切られる刑罰を受けました。今では信じられないかもしれませんが、昔の中国人は髪を切られることを一生の屈辱と感じていました。簡単に言えば、髪を切ることは親からもらった体にキズを付けるのと一緒でした。

 

「あり得ない」と思うかもしれませんが、本当の話です。たとえ諸葛瞻から恥をかかされたという話がウソだったとしても、父親の件は怨恨を抱くに十分です。父親をひどい目にあわされた陳寿は諸葛亮に対して復讐を誓ったに違いありません。「お前の子に何百年経過しても、とれないレッテルを貼ってやる!」と考えたのでしょう。

 

それが歴史書にウソの人物像を書くことでした。陳寿の復讐は見事に成功したのかもしれませんね・・・・・・

読者の皆様はどう思われますか?

 

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