龐統は蜀(221年~263年)の軍師です。蜀建国前に亡くなっているので、後漢(25年~220年)末期の人物が正しいでしょう。龐統は建安19年(214年)に益州の劉璋を攻撃中に矢が命中して亡くなりました。しかし、小説『三国志演義』を分析すると彼の死因には深いものがありました。
今回は小説『三国志演義』をもとに龐統の死因について解説します。
「龐統 死因」
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死因(1) 龐統の嫉妬
建安17年(212年)に劉備は益州の劉璋を攻撃開始。以前から内通していた劉璋配下の張松が捕縛されて処刑されたことにより挙兵を決意。
劉璋配下の名将として名高い楊懐・高沛を斬って劉璋に宣戦布告をします。さらに冷苞・鄧賢の2将軍を討つことに成功しました。勝利に喜んでいる劉備のもとに馬良がやって来ます。彼は諸葛亮の手紙を持っていました。
「早く、見せて!」と劉備は子供のように喜んでいます。そんな光景を面白くないと思っている人物が1人・・・・・・
龐統でした。彼は劉備が心の底から諸葛亮を信頼しているのを見て、自分も信頼されているのか疑いを抱きます。組織にいれば必ず起こる嫉妬の感情です。もちろん劉備は龐統と諸葛亮を区別して扱うつもりはゼロでした。
そんなつもりは無いのに劉備は、「諸葛亮が天文を見たら『凶』と出たから、これ以上の進軍は慎んだ方がよい、と言っている。だから私は1度荊州に戻って諸葛亮と軍議を練り直そうと思っている」と口をすべらせます。
その瞬間、龐統の嫉妬の感情が膨れ上がりました。龐統は諸葛亮が自分の功績を妬んでいるため、こんな手紙を送ったのではないか、とありもしない空想を頭の中で描きます。腹を立てた龐統は劉備に対して、「ちょっと待ってください」とストップ!
「天文ならば自分も見ます!今年は劉備様にとって良い年でも悪い年でもありません。たぶん、このまま進撃すれば大丈夫です!」
「そう・・・・・・」と思った劉備は龐統の言う通りに、成都への進軍を続けることにしました。
死因(2) 馬の交代
劉備と龐統は劉璋軍が立てこもる雒城に二手に分かれて進軍する計画を立てます。だが、直前に龐統の馬が足を折ってしまい、龐統は馬から落ちました。
「無事か、龐統?」
「はい、大丈夫です」と龐統は答えました。幸いにも龐統は無傷です。
出陣前に不吉なことだ、と思った劉備は自分の馬を龐統に貸してやることにしました。それは立派な毛並みと飾りつけをした馬でした。
「これならば落ちることもない」と劉備は太鼓判を押します。龐統も喜んで借りていきます。だが、これが永遠の別れとなりました。
死因(3) 劉備との間違い
実は劉備たちの作戦は敵に読まれていました。迎え撃つのは劉璋軍の張任。彼は待ち伏せしていました。張任は斥候から立派な馬に乗った人物がやって来たと情報が入ったので、「間違いない、劉備だ!」と思って出陣していました。
だが、それは劉備ではなく龐統。龐統は移動していましたが、あまりにもひどい道だったので、この場所はどんな地名なのか近くにいた兵士に尋ねます。
「落鳳波です」と兵士はコメント。それを聞いた途端、龐統は寒気が走ります。自分のあだ名は「鳳雛」、出陣前の落馬、そして現在いる地名・・・・・・龐統は嫌な予感がしたその時、一斉に何かが降り注ぎました。気付いた時には、すでに自分が地面に倒れていることに龐統は気付きました。ここに軍師龐統は絶命したのです。享年36歳。
三国志ライター 晃の独り言
以上が龐統の死因についての解説でした。張任も敵を見極める時に、顔ではなく馬で区別するとは、なかなか大胆なことをします。正史・小説の両方とも龐統は美男子とは言えない人物で有名です。遠くからでも分かったのではないでしょうか?もしかして劉備も顔が龐統と同じくらい良くなかったのでしょうか?
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