弥生時代の日本は、朝鮮半島でもっとも冶金技術が進んだ辰韓から鉄を輸入しました。
当初は製鉄の技術が無く、鉄鉱石から精製された鉄を購入し、それに熱を加えて溶かす事で、用途に合わせた鉄を造っていました。やがて、日本各地にある砂鉄を利用した原始的たたら製鉄が始まると、豪族はたたら者という部民を使って、各地で盛んに鉄を造り、鉄を独占する事で富を拡大、鉄をもたない民を使役して治水事業を行い、新田開発、そして武器の製造を行うようになり、富の象徴として古墳が出現。
そこから豪族間の淘汰が起き、やがて畿内を中心に東海から九州にまたがる大和朝廷が成立。強大な国力を背景に朝鮮半島に進出する程になりました。今回は、大和朝廷の中央集権の弛緩により、荘園が生まれた経緯と鉄が果たした役割を考えます。
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この記事の目次
理念倒れの公地公民と荘園の誕生
大和朝廷は、白村江の戦いでの敗戦で朝鮮半島の権益を失いました。同時に、唐や新羅の日本侵攻を恐れ、国内整備の一環として、強すぎる各地の豪族の権限を取り上げ、唐の律令制を取り入れた中央集権国家建設に邁進します。
それまで、豪族が私有する農奴の扱いだった人民については、全て天皇の所有する事とする公地公民が実現、土地も班田収授法により、国家から貸し与えられ、その代わりに班田収授法により土地を割り当てられて生活を保障される代わりに、租庸調及び、労役の義務を課されます。
公地公民により庶民は豪族の過酷な搾取を免れ、公平負担が実現する筈でしたが、実際には理念倒れに終わり、庶民の負担は増え宮廷では豪族同士の勢力争いが絶えず、収めるべき税を払えずに逃亡してしまう民や、労役に耐えきれずに逃亡して途中で病死したり、餓死する人々が続出しました。
また、公地公民の基本であった口分田も、やがては返す性質のものである事から勤労意欲の促進にはつながらず、口分田が不足した為、朝廷は、三世一身法で土地の貸借期間を延ばしたものの焼石に水で、西暦743年、ついに墾田永年私財法が発布され、自らが開いた土地は自己所有できる事になります。これが荘園誕生に繋がるのです。
墾田永年私財法は鉄を大量に持つ貴族や寺社の出来レース
一見すると、貧しい農民が新しい土地を開いて豊かになれるチャンスを開いたかに見える墾田永年私財法ですが、実際に新田を開くには、多数の労働力を雇える金銭や、効率よく荒れ地を耕すのに不可欠な鉄の農具が不可欠でした。当然、その日を生きるのに精一杯な庶民に新田開発など不可能であり、精々、雀の涙の手間賃を得て、荘園領主から鉄製農具を借りて開発に駆り出されるのが関の山です。
一方で、寺院や上級貴族は、朝廷より褒賞として鉄や鍬を受け取っていた事が分かっています。豊富に鉄を与えられる寺社や上級貴族と、その日暮らししか出来ない民。ここには、墾田永年私財法が、そもそも寺社や上級貴族の富を増やす為に行われた出来レースだった経緯が見えてきます。
ようやく、土地を私有できるようになった民ですが、租税が軽減されたわけではなく、容赦なく重税を課してくる役人に苦しめられ、租税を逃れるために自分の土地を荘園に寄進し、たちまち自作農から小作人に転落するという悲哀や、土地を売却して浮浪者になり、野盗になったり、農奴になって荘園主に搾取される身分に転落していきました。
鉄さえもてば豊かになれるという当時の風潮は、鉄を神聖視する信仰まで高められ、愛知県北設楽郡東栄町のお鍬様のような神社まで建てられたのです。鉄を持つか、持たないかは当時の日本で貧富を決定的に左右していました。
ペルシャ、インド、アラビアの職工がもたらした鋳造技術
古墳時代が終り、飛鳥・奈良時代に入ると遣唐使を通じて、唐から仏教が大量に流入してきます。唐は仏教が隆盛を極めた王朝であり、日本としても海外との付き合いを円滑にすべく経典や仏像、寺院、僧侶の養成が不可欠になります。
それに伴い、仏像や仏具を作成する技術者が必要になり、多くの職工が渡来してきます。古墳時代には戦争捕虜であり俘囚臣として蔑視の対象だった職工ですが、今度は戦争ではなく頭を下げての招聘であり扱いも部民ではなく、公民としての扱いになります。彼らは韓鍛冶と呼ばれ、畿内の各地に配置されて、その技術で飛鳥文化の鉄製品を創り出しました。
さらに国際都市だった唐からは、シルクロードを通り、インド人や、アラビア人、ペルシャ人も来ていたようです。そのような人々は商人や職人として好待遇が得られる国なら、進んで渡来する人々であり、日本にも天平八年(736年)遣唐使がペルシャ人を連れてきた記録が残っています。
これら外国人技術者は、機織、製陶、仏具、革職人、大工など広範囲のジャンルに及び、唐や朝鮮半島以上の高度な技術を持っていたようで、唐や朝鮮の職工が、精々身分解放された位であるのに対し、アラビアやペルシャの職工は、最低でも正八位下の官位を与えられ厚遇された事が分かります。
アラビアやペルシャの職工は、冶金の分野でも踏鞴を利用した高温炉融法による銑鉄の流し取りや、再加熱による脱酸素の技術を持ち込み、それが鋳物製造の発展に繋がり、仏具製造から鉄仏まで造られるようになり、ついには奈良の大仏のような巨仏の鋳造にまで到達したと考えられます。奈良の大仏はインターナショナルな鉄技術の集大成だったのかも知れませんね。
東日本にも拡大していくたたら製鉄
たたら製鉄が弥生中期から古墳時代に始まった地域は、播磨、美作、備前、備中、備後の山中でしたが、盛んにたたら製鉄が行われるに従い、近くに川と砂鉄がある地域へと製鉄技術は飛び石的に伝播していきました。それらのたたら製鉄は南関東で盛んになり、千葉県の安孫子や、群馬県、静岡県、茨木県鹿島でも、奈良時代には製鉄が隆盛になりました。例えば、鹿島踊りはたたら歌に似た意味を忘却した節回しが伝わっていて、これらも、たたら師達が良質な鉄を求めて、日本中を旅し製鉄場を拡大して言った証拠と言えます。
また、土地が痩せている所では、農作物に代わり、鉄を納める事で年貢に換えるケースも多く見られ、大和朝廷も拡大し続ける鉄の需要を埋める為に、進んで鉄の納入を受け入れていき、製鉄業は九州から東北まで、どこでも見られる産業になっていきました。
荘園の隆盛に部民から解放される職工
社会不安は、朝廷によって強制的に鉄の製造に関わっていた職工にも影響しました。律令によって、伴部の下の品部、雑戸として朝廷の仕事に従事していた鍛冶職工は、空前の荘園ブームにより政府の持ち場から逃亡し、寺院や貴族の荘園に逃げ込んでいきます。それまでと違い冶金の技術を切り売りすれば、食べていく事が出来たのです。
おまけに荘園は不輸不入の権を獲得し治外法権を得ていましたから、逃げ込まれれば逮捕する事も出来ません。朝廷は仕方なく職工の雑戸を解放し官公庁を整理します。こうして、鍛冶部や百済品部戸のような、渡来人や渡来人の子孫が強制的に従事されていた制度は崩壊、平安末には職工から脱皮して職人が誕生しました。
ここには日本社会の流通が活発になり、フリーランスの鍛冶でも活躍の場が生まれた事を示しています。不安定な超格差社会ですが経済の力が職人を解放したとも言えますね。荘園からの収入は無税ですから、実入りを増やす為に貴族も寺院も名田と呼ばれる経済力をつけた農民も、少しでも実入りを増やそうと新田開発と土地改良に勤しみ、食料生産力は飛躍的に増大、平安初期に600万人だった人口は、平安末期に1000万人を超える程になったのです。
鉄の日本史ライターkawausoの独り言
唐の律令に倣い、天皇を中心とする中央集権国家を造ろうとした大和朝廷ですが、公地公民も班田収授法も、理念倒れに終って機能せず、やがて農業生産力を向上させるために墾田永年私財法が発布されますが、高価な鉄を持たない庶民は、農地を拡げる力を持たず、大貴族や高級官僚、寺院のような大鉄持ち達が主導して、庶民を動員し農地を拡げていく、荘園を生み出しました。
貧富の差は拡大しましたが、農地は拡大して生産力は上がり、それまで半奴隷として部民として律令に拘束された職工が、荘園に逃げ込んで鉄を造る事で生活できるようになり、職工はフリーランスの職人へと変貌を遂げていきます。
一方で、唐で仏教が盛んになると、日本でも遣唐使を派遣して仏教を吸収、仏具や仏像を製造する鋳物技術を持つアラビアやインド、ペルシャの職工も日本に渡り、それなりの官位を与えて厚遇し、たたら製鉄の鍛造が主の日本でも鋳造技術が発展、奈良の大仏のような巨大な鋳物製造物も造られるようになるのです。
参考文献:鉄から読む日本の歴史 講談社学術文庫
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