本能寺の変という大事件を引き起こし、歴史の流れをガラリと変えてしまった明智光秀は、歴史好きにとってなかなか人気の高い人物ですね。
有名なのに、生い立ちや、性格、そもそも本能寺の変の動機はなんだったのかについてナゾが多い為、後世の私たちの想像力をかきたててやまないところがあります。
この明智光秀、以下のようによくいわれます。
「本能寺の変は、突発的に起こした事件であり、その後にどうするかのプランがなかった。それゆえ、本能寺の変の後の明智光秀は、豊臣秀吉に討ち取られるまで無策であった」。
これは本当でしょうか?
実はこの点について、再考を促す意外な記述が、『明智軍記』という文献に残っているのです。どうも明智光秀は、南北朝動乱を描いた古典文学、『太平記』の熱心なファンだったのではないか、というのです!
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この記事の目次
まずはおさらい:本能寺の変後の光秀の行動
本能寺の変で主君の織田信長を殺した後、秀吉と天王山の戦いで衝突するまでの期間中、明智光秀が明確に行ったとされる行動は、以下の二点です。
・京都の朝廷や大寺院に銀子をおさめた
・盟友である細川藤孝に、ともに決起を促す手紙を送った
その直後に秀吉に完膚なきまでにやられてしまう結果を知ってしまっている私たちから見ると、「なにをノンキなことを?」と思う行動かもしれません。
しかし、こうは考えられないでしょうか?
この二点の行動は、時宜を得ていれば、間違った戦略ではなかったかもしれない、と。
明智光秀は、アドリブで歴史講義ができるほどに『太平記』を読み込んでいた!?
ここでヒントになりそうなのが、『明智軍記』という文献です。越前にいた頃の明智光秀の記録として、以下のような一文が残されているのです。
「ある日、明智光秀が湯治場に宿泊していたところ、宿の主人が、『太平記』のことを教えてほしいと言ってきた。光秀はとても喜んで、その夜、さっそく朗々と即席の講義をしてあげた」
現代的な解釈でいえば、温泉ホテルに泊っている時に、そこの経営者と雑談になって、「あなたは『太平記』に詳しいそうですね、私、歴史が好きなのですが、いろいろ教えてくれませんか?」とお願いされたとして、いきなりその夜にできるものでしょうか?
相当、普段から『太平記』を読み込んでいないと無理ですよね。というか、そもそも、そうお願いされて「それはぜひ、なんなら今夜やりましょう!」といそいそと進めてしまう光秀は、かなりな『太平記』マニアだったといえるのではないでしょうか?
明智光秀の愛読書が『太平記』であり、即席で名講義ができるほどのマニアであったと仮定すると、光秀の行動の見え方も少し変わってくるのではないでしょうか?
南朝のとった戦略を模倣していたとしたら、光秀の戦略は悪くない!?
その『太平記』は、南北朝時代を扱いながら、どちらかといえば南朝にひいきをしている書物です。その古典に影響を受けていた明智光秀。本能寺の変の後、どうするべきかのプランについても、南朝の武将たちを参考にしたのではないでしょうか?
南朝の動きをおさらいすると、以下の基本戦略を守っていました。
・とにかく京都と奈良の二カ所をおさえておく
・日本のその他の地域での諸大名の抗争については、あまり気にかけない
・京都が攻撃され取られた場合は、すかさず奈良に逃げ込み、そこでゲリラ戦を展開しながら、全国の大名に手紙を送って仲間を募る。そうしておいて、スキさえあれば、地方大名の手を借りてまた京都に返り咲くチャンスをうかがう
・そうやって三世代くらいの長い時間をかけながら、じっくりと、政局が変わるまで耐える
まとめると、「京都奈良だけを重視しつつ、有力な同盟者を辛抱強く探す作戦」となりましょうか。思い返せば、近畿地方のみに君臨して、そこから各大名に上から目線でいろいろ要求をするのは、三好家や、松永久秀も採用していた戦略です。当時の常識でいえば、「近畿をおさえておけば、それだけで地方から一目置かれ、結果として長期戦ができる」というのは、十分に納得のいく考えだったのではないでしょうか?
この視点から明智光秀の行動を振り返ると、
・朝廷や寺院に献金をしたのは、京都を地盤としてしっかりと固めるためだった
・細川家に手紙を送ったのも、「辛抱強く有力大名に手紙を送り同盟者を探す」作戦の第一弾。細川家がダメだったら他の大名(武田やら上杉やら毛利やら)にも頼むつもりだった
ということで、「近畿地方だけを重視する作戦」の手配としては、ちゃんとやっているわけです。
まとめ:戦略が破綻したのは「日本全国」のレベルで歴史が動く時代になっていたから?
『太平記』から学んだ戦略としては、間違っていたともいえない、明智光秀の行動。それがたちまち破綻してしまったのは、なぜでしょうか?
ひとつには、『太平記』や、三好家や松永久秀の時代から、日本が大きく変わってしまっていた、ということがあるでしょう。日本全国は「そろそろ戦乱を終わらせ、誰かに全国統一をしてほしい」という気運に変わっていました。その気運を正しく理解し、日本の全国地図をイメージしながら手を打てる秀吉のスケールに、近畿しか見ていない光秀の戦略はまるで太刀打ちできなかった、というあたりでしょうか。ただし明智光秀の最大の誤算は、もっと単純なところにあったともいえそうです。
『太平記』の英雄は、楠木正成に典型的なように、「戦争で負けても逃げ延びて、近畿地方の山にこもってゲリラ戦を展開し、長期戦にもちこむ」というパターンを得意としていました。
戦国時代ライターYASHIROの独り言
天王山の戦場から脱出した光秀も、その戦略を採ろうという算段があり、諦めていたわけではなかったのでは?となると光秀の最大の誤算は、逃げ延びる途中で落ち武者狩りに遭遇したという、どうしようもない運の悪さだった、とならないでしょうか?運の良し悪し、こればかりはどうにもならないことですが、結局はこれが歴史を大きく動かす原動力なのかもしれません。
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