正史三国志でも指折りの美男ににして頭脳明晰な名将周瑜。
三国志演義では諸葛亮と関わったばかりに、手柄を奪われ短気で嫉妬心の強い小者のような扱いになりましたが、一方で三国志演義の周瑜は敵も味方も欺く名優であり、曹操まで欺く演技力を見せつけてもいます。しかし、演技にのめり込むあまり、三国志演義の周瑜は美周郎らしからぬ恥ずかしい姿を見せてもいるのです。
周瑜ファン悲鳴 恥ずかしい周瑜の姿
周瑜の恥ずかしい姿が見られる眼福シーンは、三国志演義第四十五回、三江口に曹操兵を折せ、群英会に蔣幹計に中る。に登場します。このシーンについて簡単に説明すると、赤壁の戦い前夜、周瑜と故郷が近い蔣幹は、曹操の命令を受け周瑜を籠絡して魏軍に引き抜く使命と、呉の情報を収集する役割を与えられ、偶然を装い周瑜との旧交を温める名目で呉の陣営に姿を現します。
周瑜は、蔣幹が曹操のスパイだと気づきますが、逆に利用しようと思い付き、いかにも蔣幹を信頼してる素振りで蔣幹を大宴会に付き合わせ、先に泥酔して寝たフリをして、机の上にある蔡瑁と張允の偽投降の手紙をつかませようとするというのが大体の内容です。では、そのくだりを三国志演義から抜粋してみましょう。
周瑜は宴席を片付けさせ、大将たちも退出したが、周瑜は彼の腕をかかえ「長い間同じ床で寝なかったな。今宵はひとつのふとんで休もうじゃないか」と言い、わざと酔っぱらった体で同じとばりに入って寝たが、周瑜は着物の帯もとかず、床の上にもどしたり、吐いたりした。蔣幹は到底寝つかれぬので、枕の上で軍中の太鼓が二更を報ずるのを聞いていたが、起き上がってみると、まだ有明けの灯が残っている。周瑜の方を見ると、雷のようないびきをかいている。
とばりの中のつくえの上に一巻の文書がおいてあるのを、こっそり手に取ってみると、すべて往来の書簡だったが、その中に「蔡瑁・張允謹んで封ず」とある一通があった。
周瑜のハレンチな泥酔演技
いかがでしょうか?周瑜が蔣幹を欺くために、泥酔の演技をしています。しかし、大いびきや上着を脱がないで寝るというのはいいとしても、床の上に嘔吐しているのはやりすぎな気もします。美周郎が、床にギュルルルルーと吐瀉っている。余りにも恥ずかしい演技です。しかも、この部分、三国志演義の日本語版では、ややマイルドになっているかも知れません。三国志演義の原文を見てみると
瑜曰「久不與子翼同榻、今宵抵足而眠。」於是佯作大醉之狀、攜幹入帳共寢。瑜和衣臥倒、嘔吐狼藉。蔣幹如何睡得著?伏枕聽時、軍中鼓打二更、起視殘燈尚明。看周瑜時、鼻息如雷
このように嘔吐狼藉とあり、吐しゃった以外にも、狼藉と呼べる振る舞いをした可能性があります。演技派の周瑜ですから、部屋とトイレを間違えて床に放尿くらいしたかも知れません。書いてないので断定は出来ませんが、演技で、無理やり吐くくらい徹底しているなら、放尿くらいしてもおかしくありません。
これには蔣幹もドン引きでしょう。しかし、周瑜としては大人しい泥酔演技で蔣幹に本当に寝られては困ります。何としても、机の上にある蔡瑁と張允の偽手紙を蔣幹に発見して持ち帰ってもらい、曹操に蔡瑁と張允を処刑してもらう為に蔣幹を寝かすわけにはいかないのです。
ちょっとしつこい、寝言で念押し
ここまでは、まあいいとしても、この後の周瑜の演技はちょっとしつこいです。蔣幹が机の上の蔡瑁と張允の手紙を発見して懐に入れ、他の文書も物色していると、周瑜はわざと寝返りを打ちます。危ないと思った蔣幹は急いで明かりを消し、寝床に潜り込んで寝たフリをすると、周瑜は寝言に見せかけつつ、「子翼(蔣幹の字)数日中に君に曹操めの首を見せるぞ」と言い、蔣幹が返事をすると、「子翼、まあもっと泊っていろ。曹操の首をきっと見せてやる」と重ねて寝言を言い、以後はパッタリと寝言を言わなくなります。
これは、蔣幹に書簡が本物であると信じさせる為の念押しの演技なのでしょうが、ここまで来ると、一時期のルー大柴のようなしつこさを感じますね。kawausoが蔣幹なら、あり?ちょっと寝言のタイミング良すぎないか?と逆に疑いますが・・でも、周瑜の演技は、もっともっとしつこくなります。
それはない!周瑜の白々しい演技
その後、蔣幹は寝たフリをしていると、午前3時くらいに周瑜の寝室に人影が近づき、周瑜を起こしにきます。ここで周瑜は初めて夢から覚めたという雰囲気で「俺のベットで寝ているのは誰だ?」と驚きます。その人影が「都督の親友の子翼殿ですよ、昨日、一緒にお休みでした。お忘れですか?」と問うと周瑜は後悔し「普段、俺は酒食で酔うまではいかないが、昨日は前後不覚に陥った、何か言いはしなかったか?」と聞くのです。
幾らなんでも、これは過剰演技ですよね。周瑜は、俺は蔣幹に国家の大事を話してしまったのでは?と後悔したフリを見せ自ら餌を撒いているわけです。おまけに蔣幹が狸寝入りしているのを承知で、子翼と呼んで起きているかどうか確認するなど、しつこさにしつこさを重ねます。幸いにして蔣幹はしつこい演技だと気づかなかったのか、周瑜を少しも疑わず偽手紙を曹操に持ち帰り、蔡瑁と張允の二人を処刑するアシストをしました。
三国志ライターkawausoの独り言
演技派の周瑜の原型は正史にもあります。荊州南郡を曹仁と争った頃に、乱戦で自分の右脇腹に毒矢が当たり負傷したのを利用し、自分は重傷で動けないと曹仁に流言を流し、それを信じた曹仁が攻めてくると起き上がって兵を指揮し、これを破っています。ただ、この傷は本当の重傷であり演技ではありませんでした。やがて傷を悪化させた周瑜は劉璋討伐の準備の途中、36歳の若さで死んでしまうのです。
参考文献:完訳三国志 岩波文庫
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