曹操と言えば悪役、という評価も近年では見直されてきています。この曹操の悪役化の原因の一端というと過激に聞こえるかもしれませんが、長らく曹操の悪役化は三国志演義が原因だ、という声がありました。
しかし曹操が悪として描かれる理由は一枚岩ではなく、様々な要素が絡んでいると思います。今回はその要素の一つをご紹介していきたいと思います。
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曹操の評価に影響を与えた三国志演義
三国志演義は羅貫中によってまとめられたものです。正史三国志とは違い、三国志演義は何よりも物語としての面白さ、読みやすさを意識してまとめられていると言っても良いでしょう。
そして三国志演義の特徴として、前半は劉備、後半は諸葛亮がほぼ主役と言っても良い演出であり、劉備が善であり曹操はその対極とした悪として描かれています。
この三国志演義が広まったことから曹操は悪、劉備は善として認識している人も多くいますが、これはあくまで三国志演義の演出ということは忘れてはいけません。ただし三国志演義でも曹操は悪役ではあっても無能ではありません。
本来された評価をなかったことにされていたり、出番や活躍が削られている武将たちに比べれば遥かに評価されていると言えます。ではここに至るまでに、三国志演義で悪役として描かれるまでにあった曹操悪役化の要素は……ということでは、やはり儒家との対立が挙げられるでしょう。
曹操と儒家との対立
曹操と儒家、儒教との対立に関しては色々な要因が絡んでいます。曹操と儒家との対立については、ある意味起こるべく起こったこととも言えるでしょう。儒家にとって献帝を担ぎ上げ、権力を握った曹操はあくまで簒奪者。
きつい言い方をすれば献帝に対して曹操が行った「貢献」に関しては関係ありません。曹操が献帝を担ぎ上げた、ということを常に糾弾し続けます。そして続いていく対立が、ある時決定的にしてしまうことが起こりました。
この対立を決定的にしてしまったのはやはり「孔融の処刑」でしょう。
孔融と曹操の関係性
孔融は孔子の子孫となります。つまり儒家にとって大変大切な存在とも言えます。しかし孔融もまた、曹操と対立することが多くありました。
孔融という人物はとにかく相手と自分の立場にも臆さず物事を言う人物ではあったものの、その言には屁理屈も多く、曹操は孔融を嫌っていました。
そして建安13年、南方遠征を控えていた曹操は「孫権の使者に曹操を誹謗中傷する発言をした」という罪で孔融を逮捕。
諸説ありますが孔融の妻、そして子供も処刑されたため孔融の子、つまり孔子の子孫たちを処刑したとして儒家との対立が根深くなりました。
この件に関しては曹操にも、そして孔融自身にも落ち度があったようですが、この事から曹操は長く非難の対象となり、悪役化が進んでいったと考えます。
儒家との対立が全てではありませんが、ここで対立が根深くなってしまったことは曹操の評価へと大きく影響したのではないでしょうか。そして後の世で、三国志演義でそのキャラクターが印象付けられることになったのではと思います。
曹操は悪役か?それとも
因みに筆者は過剰なまでに非難だけされたり、能力を貶められていなければ悪役の曹操であっても好きな方です。これは筆者が三国志を知ったのが三国志演義を元にした(吉川三国志を元にした)横山三国志から、というのも大きく影響されていると思われます。
横山三国志では決して曹操は正義とは書かれていません。しかし曹操は若かりし頃から野心が強く、時に危険にも見える人物であり、そして年を取ると落ち着いた悪役になって年を取ったな……と思わせるもその行動、考えにはまだまだ衰えない凄みを感じさせます。
最期には人生を振り返りながら死んでいくあの姿は、未だ消えない記憶となって刻み込まれていますね。悪役であっても魅力が衰えないのも曹操の凄い所ではないでしょうか。
なので筆者は悪役であっても曹操は魅力的であり、その評価は下げられてはいない、と思っています。寧ろ曹操は能力を貶められなかったからこそ、他の面で非難されることとなったのでは、というと、少々評価が曹操に傾き過ぎですかね?
三国志ライター センのひとりごと
近年では曹操の評価はかなり良いものとなっていっています。というよりも正史三国志が広まったために、正当に評価されていっているとも言えるでしょうか。そういったことから、三国志演義ではなく正史三国志を題材に取り上げていっている話をみかけるようになりました。
ですが、三国志演義は悪ではありません。誰もが親しめる、分かりやすく、そして三国志を広めた書物としての三国志演義の評価は忘れないようにしたいですね。
参考文献:魏武注孫子 魏書武帝紀 晋書
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