京都の名医望月東庵、しかし持前の反骨精神と偏屈のせいで金持ちの患者には恵まれず、おまけに無類のバクチ好きが祟り、借金がかさんで診療所が借金のカタに取り上げられそうになります。困った東庵は伊呂波太夫に泣きついて四十貫の大金を借り、何とか診療所を守りますが、今度は伊呂波太夫に金を返す為に尾張に行く羽目になりました。
ところで戦国時代、人々はどうやって?誰からお金を借りていたのでしょうか?
室町時代に出現した土倉と無尽
金銭貸借は、奈良時代や平安時代、国家や寺社による資金の貸借、出挙から始まります。しかし当時は米の貸し借りが主であり金銭の貸借は付属的なものに過ぎません。これが鎌倉時代に入ると、日宋貿易などで大量の中国の銅銭が入り込んで通貨としての役割を果たすようになり、金銭の貸し出しが一般化しました。
やがて、室町時代に入ると、地方にも無尽と土倉という金融機関が出現します。無尽というのは、沢山の人がお金を出し合って積み立て困った時に融資を受けられる共助組織で現在の銀行の原型。
土倉は現在の質屋の事で、質草を管理する大きくて頑丈な土壁の倉庫を保有していた事からそう呼ばれました。土倉には借上という金銭貸し出しをもっぱらにする形態もありましたが、借金のカタに金目のモノや人間を没収したので、本質的には同じです。鎌倉時代の末、京都だけで土倉は355軒もあり隆盛を極めました。すでに当時、お金を借りたり返したりは都市部では一般化していたのです。
麒麟がくるの1話では、駒がその日に食べるお米を買う為、蚊帳を土倉に質入れして、僅かな銭を借りていましたよね?そこから、望月東庵の借金は土倉からの借金である事が分かるのです。
徳政令の悪影響 面倒な戦国のキャッシング
現代でも、銀行や消費者金融からお金を借りる時には借用書を取り交わします。もちろん、これは口約束で借りた借りていないのトラブルになるのを避ける為です。これは、戦国時代でも同じですが、当時は今よりも面倒くさく、3通もの借用書を作成していました。16世紀末に滋賀県の東部で行われた金銭貸借では、次のような名称の借用書が登場します。
①売券 ・・・・土地の売却状
②預状 ・・・・お金を預けたという証明書
③徳政落居状・・・土地返還回避の為の割り増し料金の支払い証明
この滋賀県での取引は、実際には340万円相当の金銭の貸し借りでした。ですので、本当は預状だけ作成すれば話は済むハズです。しかし、当時は公権力による徳政令、つまり債務放棄命令が頻繁に出されていました。
徳政令は鎌倉時代、経済的に困窮する御家人救済の名目で行われたのが最初ですが、時代が下ると大飢饉に対する救済や将軍が変わった時の代初めの徳政、戦国期には戦国大名の戦勝記念徳政など濫発されます。公権力や大名ばかりでなく、武装した惣村等は私徳政と称し、一揆で強引に債務を踏み倒す事もありメチャクチャでした。
そこで貸主は、貸した340万円を踏み倒されない為に債権を二つにわけて、170万円相当は土地の売却代金としたのです。当時の徳政令が帳消しにしたのは、金銭の貸し借りで土地の売買は対象外でした。だからこそ、貸主は半分は土地の売却益として徳政令が出ても半分は取り戻せるようにしていたのです。
逆に言うと、当時の債務者は徳政を心待ちにし、借りた金を返さない事を待ち望む人が大勢いたという事でもあります。麒麟がくるの望月東庵は、いい加減そうに見えて、実は誠実に借金を返す意志がある良識的な人なのです。
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