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この記事の目次
蜀担当は夏侯玄でも可能
諸葛亮没後の蜀は明らかにパワーダウンしていて、曹叡にしても第一次北伐時に長安で督戦した以外は、合肥戦で呉を相手に親征しても蜀には親征していません。つまり、蜀の優先順位は呉以下であり、郭淮を張り付け、夏侯覇、夏侯玄を置いて関中を見ていれば大事にはならないでしょう。司馬懿が張り付かなくても大丈夫です。
公孫淵討伐は?
司馬懿は、239年に遼東の公孫淵も討伐しています。この戦いは1年もかかる大遠征でしたが、公孫淵自体は自己の力を過信した勘違い野郎であり、強敵ではありませんで、司馬懿にとっては、むしろ長雨で在陣が長引く事を懸念し(同時に司馬懿に手柄を立てさせたくない)退却をうるさく進言する洛陽の重臣の動向の方が厄介でした。
ここでは、曹叡がそのような雑音を取り上げずに司馬懿を信頼したので大事には至りませんでした。曹叡は軍事面では、持久戦に出れば手も足も出なくなる蜀漢の実情を把握するなど、戦略眼の確かな危なげない人物であり、司馬懿以外が公孫淵討伐に出ても、結局は討伐に成功しただろうと思います。
if三国志ライターkawausoの独り言
以上の事から考えると、司馬懿が曹操に仕えなくても歴史には大きな影響がないと言えます。もちろん、司馬懿が仕官しない事で司馬師も司馬昭も歴史に登場せず、司馬懿が鄧艾を見出す事もないので、魏王朝の簒奪もないか、別勢力が行い蜀の滅亡などの時期はズレるかも知れませんが・・
参考文献:正史三国志
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【北伐の真実に迫る】