もしも、司馬懿が曹操に仕えなかったら?

2020年4月2日


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司馬懿が曹操に仕えなかったら(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀担当は夏侯玄でも可能

野心がありすぎる夏侯玄

 

諸葛亮没後の蜀は明らかにパワーダウンしていて、曹叡にしても第一次北伐時に長安で督戦した以外は、合肥戦で呉を相手に親征しても蜀には親征していません。つまり、蜀の優先順位は呉以下であり、郭淮を張り付け、夏侯覇(かこうは)夏侯玄(かこうげん)を置いて関中を見ていれば大事にはならないでしょう。司馬懿が張り付かなくても大丈夫です。

 

公孫淵討伐は?

司馬懿と公孫淵

 

司馬懿は、239年に遼東の公孫淵(こうそんえん)も討伐しています。この戦いは1年もかかる大遠征でしたが、公孫淵自体は自己の力を過信した勘違い野郎であり、強敵ではありませんで、司馬懿にとっては、むしろ長雨で在陣が長引く事を懸念し(同時に司馬懿に手柄を立てさせたくない)退却をうるさく進言する洛陽の重臣の動向の方が厄介でした。

司馬懿と曹叡

 

ここでは、曹叡がそのような雑音を取り上げずに司馬懿を信頼したので大事には至りませんでした。曹叡は軍事面では、持久戦に出れば手も足も出なくなる蜀漢の実情を把握するなど、戦略眼の確かな危なげない人物であり、司馬懿以外が公孫淵討伐に出ても、結局は討伐に成功しただろうと思います。

 

if三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

以上の事から考えると、司馬懿が曹操に仕えなくても歴史には大きな影響がないと言えます。もちろん、司馬懿が仕官しない事で司馬師も司馬昭も歴史に登場せず、司馬懿が鄧艾を見出す事もないので、魏王朝の簒奪(さんだつ)もないか、別勢力が行い蜀の滅亡などの時期はズレるかも知れませんが・・

 

参考文献:正史三国志

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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