【魏の明帝を支えた司馬懿】諸葛亮との北伐について解説

2020年1月29日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

曹丕

 

(220年~265年)の黄初7年(226年)に以前から自分と対立関係にあった鮑勛(ほうくん)を処刑した曹丕(そうひ)ですが、20日後に自分も病死します。後を継いだのは曹叡(そうえい)でした。この曹叡を支えたのが司馬懿です。司馬懿(しばい)は西晋(265年~316年)基礎を築いた人物でした。今回は曹叡時代の司馬懿の諸葛亮(しょかつりょう)北伐防衛ついて正史『三国志』をもとに解説します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています

 

自称・皇帝
当記事は、
「司馬懿 魏明帝」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

関連記事:孟達の死因は司馬懿を甘く見たからだった!その理由を考察

関連記事:司馬懿は病気で女性を殺していた!?【はじめての三国志事件録】

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



孟達を斬る

北伐する孔明

 

魏の太和2年(228年)に蜀(221年~263年)の諸葛亮が攻め込んできました。北伐の始まりです。

 

孟達と劉備

 

これに呼応したのが孟達でした。孟達(もうたつ)はかつて蜀の将軍でしたが、建安24年(219年)に関羽(かんう)が呉(222年~280年)に攻撃されて窮地に陥った時に援軍を送らなかったことから劉備(りゅうび)から恨みを買いました。

 

孟達が魏に寝返って歓喜する曹丕

 

そのため魏に亡命しました。曹丕からは寵愛され、また外戚(=皇帝の親族)の夏侯尚(かこうしょう
)
とも親しくしていましたが2人とも相次いで鬼籍に入ったので魏では立場が弱くなります。

 

孟達と孔明

 

劉備も蜀の章武3年(223年)に亡くなったので、そろそろ許してもらおうと思い、諸葛亮に手紙を送りました。孟達は自分が魏を内側から攻撃して混乱を起こすことを提案。ナイスな作戦だったので、諸葛亮は今までのは水に流すことにしました。

 

孟達を討伐する司馬懿

 

しかし、この作戦は孟達の親族や部下が思った以上に乗り気ではありません。彼らはおそらく魏という都会に触れてしまったので、蜀という田舎に戻りたくないのです。そこで彼らは孟達の提案に乗ったフリをして司馬懿に密告。話を聞いた司馬懿は駆け付けて孟達を斬り捨てました。

 

委ねられし軍事権

雨の中進軍する曹真

 

太和4年(230年)に司馬懿は大将軍・大都督に就任して曹真(そうしん
)
と一緒に蜀に侵攻します。小説『三国志演義』では太和2年(228年)の街亭の戦いの時から出陣していますが、それはフィクションです。結局、この時は大雨のために大した戦果も上がらずに引き返すことになりました。

 

司馬懿と諸葛亮孔明のトランプ勝負

 

太和5年(229年)に諸葛亮が天水郡に出兵すると、司馬懿は長安に駐屯します。曹叡は戦いを司馬懿を委ねました。これは大きな意味があります。曹操の時代は曹氏または夏侯氏がほぼ独占していた軍事権が、司馬懿という一族とは無関係な人が握ったのです。ただし、それは魏の衰退の一歩を意味します・・・・・・

 

持久戦と諸葛亮の死

孔明と司馬懿

 

魏の青龍2年(234年)に蜀は再び攻め込んできました。司馬懿はまたもや出陣して防御に徹します。ただし、司馬懿は無駄な戦は避けて持久戦に持ち込んでいました。いつも蜀の撤退理由が兵糧切れだったので、なるべくそれに持ち込むことにしたのです。

 

流星を見た司馬懿

 

また、司馬懿は諸葛亮の寿命も計算していました。正史『三国志』に注を付けた裴松之(はいしょうし)が持ってきた『魏氏春秋』という史料によると、ある日、諸葛亮の使者が司馬懿のもとに来ます。

 

城の前を掃除する孔明

 

司馬懿は軍事のことは一切尋ねず、諸葛亮の睡眠時間・食事量・仕事の忙しさについて聞いたところ使者は、「丞相は起床は早く、就寝も遅いです。また、ムチ打ち20以上の刑罰も自分で行いますし、食事も数升(2~3合)程度です」と答えます。

 

過労死する諸葛孔明

 

使者が帰った後に司馬懿は、「諸葛亮は小さな仕事すら人に任せないし、食事も睡眠もろくにとらない。もうすぐ死ぬだろう・・・・・・」と呟きました。それから間もなくして諸葛亮は亡くなりました。戦わずして勝利する。司馬懿は兵法の基礎を実践してみせたのです。

 

三国志ライター 晃の独り言 司馬懿が主役のギャグ漫画!

三国志ライター 晃

 

『漢晋春秋司馬仲達伝三国志 しばちゅうさん』というマンガがあります。題名から司馬懿が主人公とすぐ分かります。ちなみにギャグマンガです。ただの日常系ギャグマンガではなく、史実をもとにしたギャグでした。例えば曹丕が曹洪に対して「昔、お金を貸してくれないことあったから、死刑!」というシーンは、正史『三国志』に記載されていた話でした。

 

絵は人を選ぶかもしれませんが、一読するに値します。興味のある人はご覧あれ!

※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。司馬懿が大好きという人はコメントをお願いします。

 

関連記事:諸葛亮にまつわる様々な伝説…ちょっと待って!司馬懿は逃げてないよ!

関連記事:謎に満ちていた司馬懿の洛陽ライフを解説!洛陽でどんな生活を送っていた?

 

北伐の真実に迫る

北伐

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
はじめての三国志 プロフィール画像

はじめての三国志

「ゆるく、たのしく、わかりやすく」をコンセプトにした 歴史エンタメメディアです。
(®登録商標:第5800679号)

-三国志の雑学
-, , ,