横山光輝『三国志』で陸遜が夷陵の戦いに出陣した時に呉(222年~280年)の将軍たちは、「陸遜って文弱の徒じゃないか!」と不平不満をもらしているシーンを記憶している読者の皆様もいるでしょう。
文弱の徒とは要するに文官です。ただし、正史『三国志』の陸遜は将軍です。また、乱世を生きる人が腕っぷしが弱かったら話にならないので、この陸遜の人物像は後世のフィクションであるのは間違いない。ところで漢代(前202年~後220年)の文官はどんな人だったのでしょうか?そこで『漢書』、『後漢書』をもとに漢代の文官について解説します。
「陸遜 正史」
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刀筆の吏
漢代初期には「刀筆の吏」という人々がいました。彼らは正式な役人ではなく中央から派遣された役人の下で働いている書記官です。これは決して良い呼び名ではありません。理屈も通らないゴリゴリの法律石頭の人々ばかりだったことから、呼ばれた悪口でした。
ちなみに前漢(前202年~後8年)初代皇帝劉邦の部下の蕭何と曹参も刀筆の吏です。前漢第7代皇帝武帝の時代は刀筆の吏の最盛期を迎えます。代表的な人物は張湯でした。彼は幼少期から法律の知識には長けており、父親に従いながら実力をアップさせていきます。
ある日、武帝の最初の皇后陳氏が呪詛を企む事件を起こしました。計画は発覚して関係者は逮捕されます。張湯はこの裁判を担当して、何の問題もなく解決してみせたことから武帝に重用されました。
ただし、前述したように昔から法律の知識にたけていたことから性格は冷たかったようです。なお、張湯のように法律に長けて優秀であるが、民に対してあまり恩恵が無い官僚を「酷吏」と言います。張湯は上記のような性格だったことから敵も多く、最後は政敵から無実の罪を着せられて自殺に追い込まれました。なお、刀筆の吏という言葉は武帝の時代が終わって以降、史料から姿を消してしまいます。
文吏・文法の誕生
武帝の死以降、『漢書』に「文吏」、「文法」という言葉が散見するようになります。文吏、文法という言葉はどんな意味でしょうか?
文吏は儒学と法律の知識を持った官僚です。「文」は儒学、「吏」「法」は法律という意味です。武帝の時代に儒学は国学として採用されたので儒学は官僚にとって必須科目となったのでした。また、武帝の時代には法令も整備されていたことから法律は官僚にとって知っておかねばいけない分野になったのです。要するに現在の公務員試験の憲法・民法・刑法を勉強することと一緒です。しかし、後漢(25年~220年)になると、また違ってくるのです。
儒学者と法律家の差別化
『後漢書』にも文吏・文法という単語は頻出します。だが、後漢は前漢に比べると儒学が隆盛しており、儒学の教養の方が大事されました。そのため官僚も法律よりも儒学の勉強に重点を置いていたのです。
後漢第8代皇帝順帝の陽嘉元年(132年)に文吏と儒学者の進路が明確に規定されました。これは曹操も受けた孝廉選挙なのですが、政府が儒学者と法律家の差別化を行ったことが分かります。
この時に合格した儒学者は後に発生した党錮の禁で犠牲になったり、また黄巾の乱で復権したりするのです。一方、文吏は特に史料から目立つものはありません。彼らは儒学者よりも立場が下の扱いなので、試験合格しても郡県の下っ端役人として扱われるだけでした。
後世の科挙(官吏登用試験)で儒学に重きを置いて、法律や実務などを軽視することは、この時から始まったのでした。
三国志ライター 晃の独り言
今回は漢代の文官について正史から解説しました。題名から陸遜の解説と思われたかもしれませんが、今回は違う視点から斬りこんでみました。毎回、同じような内容ばかり書いていては読者の皆様も飽きると思ったので、今回はこのような手法をとりました。
また、私の記事のコメント欄には三国時代(220年~280年)以外の中国史の質問も受け付けています。答えれる範囲でしたら回答可能です。よろしくお願いします。
※参考文献
・江幡眞一郎「漢代の文吏について」(『田村博士頌壽東洋史論叢』 1968年所収)
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