戦国時代のドラマなどでお馴染みのキーワード上洛。どういうわけか戦国大名は、猫も杓子も上洛をしたがるように見えます。でも、どうして戦国大名は上洛したがるのでしょうか?そもそも上洛して何の得があるの?上洛を望まない戦国大名がいたの?
今回の「はじめての三国志」では、みんな大好き上洛の真実について分かりやすく語ります。
この記事の目次
そもそも上洛とはどういう意味
上洛とは簡単に言うと、地方から天皇のいる日本の中心京都に上る事を意味します。
あれ?それなら上京でもよくね?と思うでしょうが、実は上洛の洛とは唐の時代の中国の中心都市だった洛陽の事なのです。つまり、平安京を唐の洛陽に見立てて風流を気取ったのが上洛の語源なんですね。
びっくり事実!室町時代には大名はほとんど上洛していた
時代は下って室町時代、幕府が京都の室町に開かれると、足利将軍はほとんどの守護大名に上洛を命じ京都に駐在する事を義務にしていました。これは地方に守護大名をおいておくと、守護同士で結託して、幕府に反旗を翻すのを阻止する為と、謀反を討伐する時に京都に守護大名がいると動員を掛けやすいという意味があります。
こうして守護大名は、領地と京都を往復する不自由を強いられ、次第に自分が上洛する間に、領国の運営を任す守護代を個人的に選任するようになります。ともあれ、室町時代には大抵の守護大名は上洛し、足利将軍の近くに仕えていたのです。
応仁の乱で守護大名は京都から去る
しかし、1467年に勃発した応仁の乱で事態は一変します。東軍と西軍に分かれて戦った守護大名ですが、戦いは11年の長期戦になり京都は焼け野原。おろおろするだけで混乱を収拾できない足利将軍の権威は著しく低下したのです。
すると、応仁の乱とは無関係に、よその守護大名の領地を奪おうというドロボー守護大名が出現します。
「ヒャッハー!今は弱肉強食の時代だぜ、取られるやつが間抜けなんだよぉ」
このようなヒャッハー守護大名が頻発したばかりか、守護大名が領国経営を任せた守護代にも国人領主と組んで主の領地を私物化する動きを見せる不届きものが出てくる始末。
「じょ、冗談じゃない!京都などにいられる時か、国に帰るぞ」
こうして、室町将軍が課した在京の義務を無視して領地に帰る守護大名が続出し、京都からは守護大名がほとんど消えてしまったのです。
明応の政変で将軍は無力化
一方で、守護大名が消えた京都では、三管領の氏族である山城国守護畠山政長、尾張国守護斯波義寛等が残留し足利将軍主導で、幕府秩序の回復を図ります。
しかし、将軍主導で近江や河内遠征の途中、留守にしていた京都で、管領、細川政元がクーデターを引き起こし畠山政長は敗死、斯波義寛は越前回復の夢を絶たれて政元に屈服、将軍足利義稙は政元に幽閉され、新たな将軍足利義澄が政元主導で擁立されます。さらに将軍の軍事力であった奉公衆も解体されました。
これにより、将軍の軍事力はほぼゼロになり、天皇同様に庇護される駒の存在に落ちぶれてしまうのです。
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