関平は関羽の実の息子!一体どこで生まれたの?


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関平は関羽の実の息子(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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荊州の7年間に家庭を持ったのでは?

関羽

 

黄巾討伐以来、人並みの幸せは望むべくもなく刹那的(せつなてき)な暮らしを強いられていた関羽ですが、劉備が荊州の劉表の世話になっている7年間は、新野から南の樊城に遷った事があったものの、それほど長距離の移動ではありません。

 

劉備 髀肉の嘆 ゆるキャラ

 

劉備は、この7年で特に戦争もないままデブになり、髀肉の嘆の故事も生まれました。劉備も側室の甘夫人との間に阿斗、すなわち劉禅(りゅうぜん)が産まれています。

碁をうつ関羽

 

劉表は傭兵隊長としての劉備に十分な報酬を与えたでしょう。曹操が荊州を攻めた時ですが、劉備は関羽を別動隊として、数百艘の船を与えて江陵で落ち合おうと送りだしています。劉表の没後、劉琮は曹操に降伏した事を劉備に知らせていないので、数百艘の船は劉備の自前か樊城の備品でしょう。相応の資金はあったと考えます。

酒癖の悪い張飛(桃園三兄弟)

少ない情報ですが、ボスの劉備がデブチンになるほどに富んで安定していたわけですから、関羽や張飛も当初の形態はどうであれ、家庭を持ちその過程で子供が生まれたのでしょう。荊州には7年間居たので、ある程度、自分で歩く事ができる程度まで子供達は成長していて、長期一緒にいたために離れがたくなり、大勢出た難民に混じって夏口まで落ちて行ったという事だと思います。

 

関平は樊城が初陣だったのではないか?

父・関羽とともに亡くなる関平

 

ですので、関平の生誕は西暦200年前後であり、樊城の戦いで敗れた頃には18歳くらいで初陣であったのではないかと考えます。そのように考えると、関平に手柄の記述がない事や後継ぎがいない事も説明がつきます。関平は非常に年若く、父である関羽の役に立とうと張り切りますが、皮肉にも初陣が最期の戦いになってしまったのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

関平が一体どこで生まれたのかについて考えてみました。傭兵だった関羽は、実際には認知していない多くの子供が、中国各地にいたかも知れませんが、しっかりと家庭を持ち認知した息子は関平が初めてだったのでしょう。

 

参考文献:正史三国志

 

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英雄の死因

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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