【徳川家康の長男】信康を切腹に追い込んだ真犯人は武田?

2020年5月5日


 

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鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス(徳川家康)

 

戦国時代を勝ち抜き、江戸幕府を開いた徳川家康(とくがわ いえやす
)
。その跡継ぎといえば、誰しもが二代目将軍、徳川秀忠(とくがわ ひでただ
)
の名前を思い浮かべるのではないでしょうか?しかしその秀忠には兄がいた、ということをご存知でしょうか?

 

松平信康

 

本来の意味での、「徳川家康とその正室の間に生まれた長男」は、秀忠よりもずっと年上の、松平信康(まつだいら のぶやす
)
という人物です。

 

「正室の長男で、しかもずっと年上ということなら、どうしてその信康が二代目将軍にならなかったの?秀忠よりも先に早死にしてしまったの?」

 

と思った方は、鋭い!

 

切腹する松平信康

 

松平信康は、わずか二十歳で生涯を閉じてしまい、その後の家康の後継者争いには登場しなくなります。その死因は、病死でも戦死でもありません。父親の家康に命令されての、切腹でした。

 

いったい、何があったのでしょう?!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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まずは「通説」を確認!徳川家康は織田信長に脅されて、泣く泣く長男に自殺を命じた?

同年小録(書物・書類)

 

この「長男に自殺を命じた」というのは、苦労人である徳川家康の生涯でも最大級の辛い出来事だったようです。後年になってからの家康はこの経緯をほとんど語らなかったとされています。そればかりか、これほど重大な事件について、徳川家の記録や正史書にはあまり詳細な話が遺されていません。

 

徳川家康

 

家康本人も含めて、その家臣団にとっても、この事件のことは「あまり細かく思い出したくない」不幸だったのでしょう。ただし、徳川時代を通じて語られてきた通説としては、以下のようなエピソードがあります。おおむね、徳川家康を主人公にしたドラマや小説でも、この「通説」の展開が採用されているようです。

 

気性が荒かった松平信康

 

それによると、

 

・松平信康は有能な後継者だったが、気性が荒いために人間関係のトラブルが多かった

・その奥さんは、信長の娘だった

・この奥さんといろいろと仲が悪かった

 

徳川家康は織田信長に脅されて息子の松平信康に切腹を命じる

 

・特になかなか男子を生まないことで、信康は奥さんを相当に虐めていた

・それを知った信長が激怒し、ある日、徳川家康に「お前の長男の信康はけしからん、処刑せよ!」と無理なことを言ってきた

・悩んだ家康だが、泣く泣く信康に「信長様の命令だ、仕方がないのだ」と説得した

・信康も覚悟を決めて、自決した

 

天下布武を唱える織田信長

 

つまり、独裁者として絶頂期であった信長に、家康は逆らうことができなかったため、やむをえず長男に死ぬことを命じた。言われた長男も、父の苦悩を理解し、覚悟を決めて、見事に自決した。そんな一種の美談だった、というわけですね。

 

実は危機的だった三方ヶ原合戦前後の徳川家臣団

水滸伝って何? 書類や本

 

ところが最近の研究では、この経緯にかなり突っ込んだ調査が入っています。本多隆成(ほんだ たかしげ
)
氏の著作『徳川家康と武田氏』という本では、まさにこの松平信康事件の印象を覆す意外な事実が続々と語られています。

 

武田信玄に挑む若き徳川家康

 

特に重要なところとして、三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい
)
を巡る経緯を確認しておきましょう。この戦いは通説によると、「意地をみせた徳川家康がわざわざ城を出て武田軍に野戦を挑み、大敗したかわりに家臣団を団結させることに成功した」となります。ですが先述の著作によると、実際には徳川家臣団は崩壊寸前の極限に追い込まれていたようです。

 

こっぴどく敗退する徳川家康

 

徳川領では、武田家の調略によって、どんどん内通者が出てしまうという悲惨な状況が起きていたのです。武田信玄のやりくちを知っている人なら、ピンとくるのではないでしょうか?

軍議(日本史)モブa

 

敵を倒す時は、まず敵の中に内通者をつくり、組織の内部崩壊を促してから、最後に戦場で華々しく打ち破る、それが信玄の得意なパターンです。

 

徳川家康をボコボコにする武田信玄

 

三方ヶ原の戦いでも、武田家はこのパターンを使い、徳川家臣団の内部分裂を狙ったようです。

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

しかも工作はかなり効いたようで、一説には、家康が無理に城から出て武田軍に野戦を挑みかかっていった理由というのも、内通者だらけで追いつめられている中、大将としての蛮勇(ばんゆう)を見せないともはや組織が崩壊する寸前だったという事情があったといわれています。

 

最近の調査が暴き出す意外な黒幕は武田勝頼!

武田信玄死去

 

よく知られているように、三方ヶ原の戦いは武田信玄の病死というハプニングのおかげで、徳川家康が奇跡的に生き延びるという結末を迎えます。ところが実際には、信玄死亡後も、家康は武田側からの工作に何年間も苦しめられたようです。

 

武田勝頼

 

そのことを象徴するのが、大岡弥四郎(おおおか やしろう)事件と呼ばれるものでした。

 

武田二十四将(馬場信春)をメイン

 

これは武田勝頼(たけだ かつより)からの内通の誘いを受けた大岡弥四郎という人物が、家康からの寝返りをくわだて、徳川家康の支城であった岡崎城(おかざきじょう
)
をあわや武田家に明け渡してしまう直前で逮捕された、というショッキングな「未遂事件」でした。この時、大岡弥四郎とその一味は残酷なやり方で処刑されたのですが、注目すべきはこの事件の舞台となった岡崎城です。当時の徳川家では、家康が浜松城(はままつじょう)を、その長男である信康が岡崎城を監督するという分担になっていました。

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YASHIRO

YASHIRO

とにかく小説を読むのが好き。吉川英治の三国志と、司馬遼太郎の戦国・幕末明治ものと、シュテファン・ツヴァイクの作品を読み耽っているうちに、青春を終えておりました。史実とフィクションのバランスが取れた歴史小説が一番の好みです。 好きな歴史人物: タレーラン(ナポレオンの外務大臣) 何か一言: 中国史だけでなく、広く世界史一般が好きなので、大きな世界史の流れの中での三国時代の魅力をわかりやすく、伝えていきたいと思います

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