戦国時代を勝ち抜き、江戸幕府を開いた徳川家康。その跡継ぎといえば、誰しもが二代目将軍、徳川秀忠の名前を思い浮かべるのではないでしょうか?しかしその秀忠には兄がいた、ということをご存知でしょうか?
本来の意味での、「徳川家康とその正室の間に生まれた長男」は、秀忠よりもずっと年上の、松平信康という人物です。
「正室の長男で、しかもずっと年上ということなら、どうしてその信康が二代目将軍にならなかったの?秀忠よりも先に早死にしてしまったの?」
と思った方は、鋭い!
松平信康は、わずか二十歳で生涯を閉じてしまい、その後の家康の後継者争いには登場しなくなります。その死因は、病死でも戦死でもありません。父親の家康に命令されての、切腹でした。
いったい、何があったのでしょう?!
この記事の目次
まずは「通説」を確認!徳川家康は織田信長に脅されて、泣く泣く長男に自殺を命じた?
この「長男に自殺を命じた」というのは、苦労人である徳川家康の生涯でも最大級の辛い出来事だったようです。後年になってからの家康はこの経緯をほとんど語らなかったとされています。そればかりか、これほど重大な事件について、徳川家の記録や正史書にはあまり詳細な話が遺されていません。
家康本人も含めて、その家臣団にとっても、この事件のことは「あまり細かく思い出したくない」不幸だったのでしょう。ただし、徳川時代を通じて語られてきた通説としては、以下のようなエピソードがあります。おおむね、徳川家康を主人公にしたドラマや小説でも、この「通説」の展開が採用されているようです。
それによると、
・松平信康は有能な後継者だったが、気性が荒いために人間関係のトラブルが多かった
・その奥さんは、信長の娘だった
・この奥さんといろいろと仲が悪かった
・特になかなか男子を生まないことで、信康は奥さんを相当に虐めていた
・それを知った信長が激怒し、ある日、徳川家康に「お前の長男の信康はけしからん、処刑せよ!」と無理なことを言ってきた
・悩んだ家康だが、泣く泣く信康に「信長様の命令だ、仕方がないのだ」と説得した
・信康も覚悟を決めて、自決した
つまり、独裁者として絶頂期であった信長に、家康は逆らうことができなかったため、やむをえず長男に死ぬことを命じた。言われた長男も、父の苦悩を理解し、覚悟を決めて、見事に自決した。そんな一種の美談だった、というわけですね。
実は危機的だった三方ヶ原合戦前後の徳川家臣団
ところが最近の研究では、この経緯にかなり突っ込んだ調査が入っています。本多隆成氏の著作『徳川家康と武田氏』という本では、まさにこの松平信康事件の印象を覆す意外な事実が続々と語られています。
特に重要なところとして、三方ヶ原の戦いを巡る経緯を確認しておきましょう。この戦いは通説によると、「意地をみせた徳川家康がわざわざ城を出て武田軍に野戦を挑み、大敗したかわりに家臣団を団結させることに成功した」となります。ですが先述の著作によると、実際には徳川家臣団は崩壊寸前の極限に追い込まれていたようです。
徳川領では、武田家の調略によって、どんどん内通者が出てしまうという悲惨な状況が起きていたのです。武田信玄のやりくちを知っている人なら、ピンとくるのではないでしょうか?
敵を倒す時は、まず敵の中に内通者をつくり、組織の内部崩壊を促してから、最後に戦場で華々しく打ち破る、それが信玄の得意なパターンです。
三方ヶ原の戦いでも、武田家はこのパターンを使い、徳川家臣団の内部分裂を狙ったようです。
しかも工作はかなり効いたようで、一説には、家康が無理に城から出て武田軍に野戦を挑みかかっていった理由というのも、内通者だらけで追いつめられている中、大将としての蛮勇を見せないともはや組織が崩壊する寸前だったという事情があったといわれています。
最近の調査が暴き出す意外な黒幕は武田勝頼!
よく知られているように、三方ヶ原の戦いは武田信玄の病死というハプニングのおかげで、徳川家康が奇跡的に生き延びるという結末を迎えます。ところが実際には、信玄死亡後も、家康は武田側からの工作に何年間も苦しめられたようです。
そのことを象徴するのが、大岡弥四郎事件と呼ばれるものでした。
これは武田勝頼からの内通の誘いを受けた大岡弥四郎という人物が、家康からの寝返りをくわだて、徳川家康の支城であった岡崎城をあわや武田家に明け渡してしまう直前で逮捕された、というショッキングな「未遂事件」でした。この時、大岡弥四郎とその一味は残酷なやり方で処刑されたのですが、注目すべきはこの事件の舞台となった岡崎城です。当時の徳川家では、家康が浜松城を、その長男である信康が岡崎城を監督するという分担になっていました。
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