たとえば今回の記事の主人公、竹中半兵衛(竹中重治)のような戦国時代の有名人のことを考える時には、気を付けなければいけないことがあります。
人間というものは、今も昔も変わらず、「歴史上の人物についてウンチクを垂れる」ことが大好きだったようで。
特に江戸時代には、そのような歴史物語が人気を博していたようです。そして、これもまた「今も昔も」というべきか、江戸っ子たちにもやはり『三国志』と『戦国時代』は人気でした。
何が言いたいかといいますと、
「戦国時代の有名人たちについては、どうもその後の時代に、江戸の庶民が勝手につけくわえたイメージが紛れこんでいることが多く、実像と虚像の分離が難しい」という点です。
特に江戸っ子たちとしては、日本の戦国時代の人物たちにも、三国志に登場するような並みはずれた英雄豪傑がいてほしかったという、強い欲望があったようです。
という背景から、特に豊臣秀吉の家臣団のキャラクター付けについては、しばしば「これは三国志と混同しているのでは?」とツッコミたくなるような極端な逸話が後世に勝手に付け加えられていることがあるのです。
そう、竹中半兵衛についても、
「これはぜったいに、三国志の、『あの人』のイメージが紛れ込んでいるよね!」と言いたくなる要素が多々あります。そうです『あの人』です!
この記事の目次
みんなが求めていた「日本の諸葛孔明」の役回りを期待された?天才軍師こと竹中半兵衛!
そもそも竹中半兵衛が秀吉の部下になった経緯からして、以下のような話になっています。
「浪人の身となり隠居生活を送っていた竹中半兵衛を、どうしても召し抱えたいと、秀吉が自ら、三度も訪問した。三度目の訪問で、ついに秀吉の人柄に感化された半兵衛は、ようやく秀吉の部下になることを了承してくれた。それからは良い主従関係となった」
これを聞いてどう思うでしょうか。
「なんかどっかで聞いたような話」
が率直な感想ではないでしょうか。
そうです。劉備玄徳が諸葛亮孔明を部下に加えた際の、『三顧の礼』の故事、そのままですよね。
本当に秀吉が三回竹中半兵衛の説得に出かけたかどうかは、もはや誰にもわかりませんが、「ピッタリ三回というのは、なんともできすぎた話だな」と、どうしても疑ってしまいます。
ともあれこれが脚色だったとしても、「日本史にも諸葛亮孔明がいてほしい!」という気持ちの表れが、こういう伝説を生み出したのだとすれば、なんだか気持ちはわからなくもないですよね。
実像の竹中半兵衛は軍師というより冷静沈着な実務家?
こうして、鳴り物入りで秀吉の傘下に加わった竹中半兵衛。ところで、その後の活躍は、史実ではいかほどだったのでしょうか。
どうやら、姉川の合戦や長篠の合戦、播磨攻めなど、その後の秀吉の重要な作戦には、ことごとく呼び出され、加わっていた様子です。まさに劉備に従う諸葛亮のごとく、「常に秀吉の側に付き添っている竹中半兵衛」というイメージは、このような各地での転戦ぶりから出来上がったのかもしれません。
ただしそのわりには、「竹中半兵衛が何かをした」という記録は、あまり見当たりません。さまざまな合戦に参加して忙しくしていたのは確実なのに、です。ただし、同時代の武将たちからは、「竹中半兵衛というのはいいやつだった」「実に頼りにやるやつだった」とかなり評判がよかったという話もあります。
このあたりから想像するに、実際の竹中半兵衛は、策をめぐらす軍師というよりは、軍事にも、防衛にも、内政にも、交渉事にも、とにかく何をやらせても見事に解決してくれる、頼りになる実務家という存在だったのではないでしょうか。
それでいて人柄もとても落ち着いていて、周囲の武将たちから好かれていたとなると、なるほど、秀吉がとにかく気に入って、各地の戦場にとにかく連れて行ったというのも、理解できます。ただし、これは諸葛亮孔明タイプの「軍師」というイメージとは、ちょっと違いますよね。
まとめ:竹中半兵衛は「けっきょく真の実力を見せてくれていない」?
しかしよく考えてみると、竹中半兵衛はいっぽうで、記録に残るような大失敗も、特におかしていないようでもあります。秀吉にさんざん忙しく働かされていた以上、時には相当にシビアなピンチに陥ったこともあるはずですが、「苦労した」というそぶりも、特に感じさせないのが、竹中半兵衛です。
極端にいえば、「ひょっとしたら、秀吉が半兵衛に割り振っていた仕事は、半兵衛の実力ではぜんぶ余裕の仕事にすぎなかった」、すなわち、「本当の実力を見せる機会のないまま早世した」可能性もあるわけです。
三国志ライターYASHIROの独り言
もし、竹中半兵衛が、けっきょく全力を出したことがないままだったとしたら?
もし彼が長生きして、そのまま豊臣政権の重臣となり、晩年に徳川家康というオオモノと対峙することがあったら?
徳川家康相手なら、そのときこそ、竹中半兵衛の全力を見ることができたかもしれません!
もし半兵衛が長生きしていたら、秀吉亡き後、豊臣家臣団をとりまとめて徳川家康に対抗する役回りは、石田三成ではなく彼が担っていたかもしれませんね。
亡き秀吉の遺志を重んじて義に生きる老将、竹中半兵衛という、まさに孔明の『出師の表』を思わせるような展開があったかもしれません。とは妄想しつつ、いっぽうでは、
伝わってくる竹中半兵衛の人柄を考えると、「泣いて馬謖を斬る」ことも似合わなければ「生ける仲達を走らす」ことも似合わない、冷静温厚な人物だったようで。
たとえ長生きしていたとしても、あっけなく隠居生活に入ってしまった可能性も、捨てきれません。いずれにせよ、この「けっきょく実力がどれほどだったのかが、よくわからない」ミステリアスさこそ、竹中半兵衛という人物の魅力の秘密といえそうですね。
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