

傭兵隊長の劉備が曹操の重臣を多く出した夏侯氏と縁が深いのは有名です。
魏から亡命した夏侯覇、張飛が拉致して妻にした夏侯覇の従妹などですが、劉備にまつわる夏侯氏はこの2名だけではなかったのです。疑おうと思えば幾らでも疑える劉備と夏侯氏の怪しい関係について考えてみます。
この記事の目次
劉備配下の将軍夏侯博!
劉備の配下だった夏侯氏の1人目は夏侯博です。彼の登場は西暦200年、朱霊と共に袁術を討伐に向かった劉備が、方向転換して下邳に入り、刺史の車冑を殺害して徐州の領有を宣言した時に、その配下の将であった事が分かります。
この時の劉備は中々の策謀を巡らせ、東海の昌豨を叛かせ、郡県の多くも曹操に謀反して劉備に与したので手勢が数万人まで膨れ上がります。
劉備はこの状態を維持し孫乾を派遣して袁紹と連携を取りました。これに対し、曹操は劉岱や王忠を派遣して討伐させましたが失敗したので官渡で袁紹にまみえている忙しい時期でしたが、自ら劉備討伐を決め官渡から西に走って劉備を撃破しています。
劉備は曹操が袁紹に張り付き、自分の討伐には来ないと思い込んでいたので、曹操が来たと聞いても中々信用せず、いよいよ曹操の大将旗を見て驚き手勢を棄てて逃げたと魏略にあります。この戦いで曹操は劉備の将軍である夏侯博を生け捕ったそうです。
登場した時から将軍で生け捕られる夏侯博
斬り捨てたのではなく、生け捕りという点、聴いた事ない名前なのにすでに将軍という点を見ると、劉備が許で曹操の客将をしていた頃に劉備に懐いた夏侯惇の一族なんじゃないかと考えてしまいますが、その後、夏侯博が歴史に登場する事はありません。
でも、タイミングがタイミングですし、赤の他人の夏侯氏とは考えにくいですよね?もし、曹操の出身母体である夏侯氏から裏切り者が出たと考えると何とも興味深いです。
博望で趙雲に捕えられた夏侯蘭
もう1人の夏侯氏は、夏侯蘭と言い趙雲と同郷の出身なのだそうです。劉備が荊州の劉表の下に逃げた頃、夏侯惇が劉備を追撃して博望坡で激突しますが、夏侯惇は劉備の伏兵に敗れて敗走しています。
趙雲は、この時に夏侯蘭を生け捕りにして劉備に対し夏侯蘭は法律に詳しいので軍正として登用するように勧めましたが、公私混同を避ける為に以後は近づかなかったと趙雲別伝に書かれています。
この夏侯蘭は、趙雲と同郷という事ですが、部隊としては夏侯惇の部隊にいたであろう事が分かります。夏侯という姓は復姓で中国では珍しくたまたま夏侯惇の部隊に、特に縁もゆかりもない夏侯蘭がいたというのであれば相当に奇妙な偶然という事になります。
やはり、縁もゆかりもないという事は考えにくいのではないでしょうか?
ただ、こちらの夏侯蘭もその後、三国志には登場しなくなります。
推測:夏侯氏は一枚岩ではなかった!
奇しくも同時期に曹操に生け捕られたり、趙雲に生け捕られたりした二人の夏侯氏の不思議。曹操と夏侯氏と言えば一蓮托生のようなイメージですが、実際は曹操に反感を持つ夏侯氏も一定数居て、それが劉備に与したのではないでしょうか
実は官渡の戦いの頃、劉備は豫洲の汝南で反曹の宣伝活動を随分したそうで、曹操や夏侯惇の出身地である沛国礁県付近も戦乱に巻き込まれたそうなのです。事実、曹操は西暦202年の正月、故郷の礁に進駐して布令を出していますが、その内容というのが意味深なのです。
故郷で鎮魂の布令を出す曹操
曹操の布令は以下のような内容です。
私は義兵を起し、天下の動乱を排除してきた。郷里の人民は全て死んでしまい、沛国中を終日巡ってみても知人は絶えて無く、私に傷ましい心を抱かせる。義兵を挙げて後、将士のうちで後継の断絶した者は親戚から後継者を求め田畑を授け、牛を給付して学師を置いて教育させよ。後継者がある家には廟を立てその先人を祀らせよ。魂に精神があるなら、私が死んで百年の後にどうして恨もうか
布告を見る限り、曹操の故郷の礁は官渡決戦の余波で全滅したような印象です。しかし、それは全て曹操に味方して全滅したとは限りません、現に同時期に夏侯博という人物が将として劉備について破れ、曹操に生け捕られているからです。
夏侯氏反乱をケアすべく礁に立ち寄った曹操
深読みするならば礁には、曹操の風下に立つ事を良しとしない一部の夏侯氏が存在し、袁紹の力を背景にした劉備の扇動に乗っかり、いわば同士討ちのような事態が起きた。
そこで、これは捨てて置けないと考えた曹操が故郷に進駐し、敵味方を問わず夏侯氏を含めて将兵の鎮魂を行い必要なケアをして、二度と同じような事態にならないように周到に根回しをしたと、このように結論づけられるのです。
三国志ライターkawausoの独り言
劉備は曹操の食客として世話になる間に、実は曹操と夏侯氏の中には深刻な断裂があると見て取ったのだと思います。そして、礁の反曹派閥の夏侯氏を扇動する事で、その中の夏侯博という人物が劉備に寝返り行動を共にするようになった。
これを野放しにして、さらに礁から造反者が出る事を恐れた曹操は多少無理をして官渡から足を伸ばし、小沛で劉備を討って夏侯博を捕縛したと推測できます。
しかし、一族から造反者が出るというのは曹魏に取って都合が悪い事実なので、曹魏からの禅譲により権力を握った晋王朝は夏侯博の素性について詳しく書く事を陳寿に禁じた。本当はこんな裏事情があったりしませんかね。
参考文献:正史三国志
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