強者揃いの戦国武将の中でも最強の呼び声が高い人物と言えば、九州の島津氏でしょう。有名な話としては、島津義弘が関ケ原の戦いで敗北後、勝者である福島正則隊を突破し、徳川家康の本陣の前で転進したという逸話があります。
しかし、それ以外にも島津氏は朝鮮の役でもほとんど経験がない海戦で大活躍するなど、異次元の強さを発揮しました。それではどうして島津は強かったのでしょうか?
漆川梁の戦い
島津氏の活躍を考える上で特質すべきは、不慣れなはずの海戦における大活躍です。慶長2年(1597年)7月15日の漆川梁の戦いにおける島津豊久の活躍を見てみましょう。
慶長2年7月14日、朝鮮水軍は三閑山島の本営を出撃、15日夜半には巨済島と漆川島の間にある漆川梁に停泊していました。この情報を得た日本軍は、朝鮮水軍を水陸から挟撃する作戦をたて、16日の明け方より藤堂高虎らの日本水軍は海上から攻撃を攻撃を開始します。
これを陸上部隊が援護し戦いは終始、日本水軍が朝鮮水軍を圧倒し、数千人を討ち取り、その他の水軍兵を海へ追い落とし、朝鮮水軍の船160余隻を捕獲、その後、津々浦々15~16里にわたって海賊船を悉く焼却したとされています。
不慣れな海戦で活躍した島津豊久
この戦いにおいて、島津豊久は先陣を切って活躍しました。それがどうかした?と思うかも知れませんが、島津は内陸国で海戦の経験はほとんどないのです。さらに、水軍の戦いと言っても日本の海戦と朝鮮の海戦は違います。
例えば日本の場合は、船と船を接舷させて兵士が乗り移り斬り合うのが主流であり、船の絃も低くされています。ところが朝鮮の水軍は基本、火砲を装備していて戦いは互いに火砲を撃ち合い敵の船を穴だらけにして戦闘不能にするものでした。
当然、舷側は高くなっていて、飛び移るのには難儀ですし亀甲船は天井板に錐状の刃物がついているのです。しかし、豊久は少しも躊躇することなく亀甲船に飛び移って、敵兵を斬りまくり、敵船を鹵獲するなど大活躍します。どうして、こんな事が可能だったのでしょうか?
薩摩人の具体的行動を産み出した詮議
薩摩の郷中教育では詮議というトレーニングを繰り返しました。
これは、「もし○○ならどうするか?」という問答を1人が出し、それに全員で具体的な答えを出すトレーニングです。例えば、「家族皆んなが仲良くするにはどうするか?」という詮議が出されたとしましょう。
この場合、儒教的には五倫五常を守る事というのが模範解答です。しかし、詮議ではこれでは間違いです。理由は具体的ではないからであり具体的ではないという事は、実戦では役に立たないという事なのです。
では、どういう答えが模範解答なのかというと、
「美味しい食べ物は皆んなで分ける。家族の仲が悪くなるのは欲を出すからで、相続争いもそうである。各々が欲を抑えて譲り合うのがいい」
どうでしょうか?非常に具体的で納得できる内容ですよね?
郷中では、この詮議で誰もが納得できる具体的な答えを連発できる人間が指導者として認められ、上位に上がっていくのです。
避難民を収容した島津氏の知恵
文禄の役と慶長の役には、大きな違いがありました。最初の文禄の役は、ひたすらに北上して明国を目指すものでしたが、それでは補給が続かないので、次の慶長の役では、朝鮮南部を政治的な支配下において統治しようとします。つまり、日本的な城を幾つか築いて拠点にし住民を帰順させて農耕に従事させるのです。
しかし、いかにそうしても、異民族の軍隊に戻ってきてくださーい、危害は加えませーんと言われた所で、一度恐怖に支配された住民はそう簡単に帰ってきませんでした。そこを上手くやったのも、やはり島津だったようです。
一般の戦国大名は、占領した地域に立て札を立てて、帰属すれば安全を保障すると漢文で書くのですが、島津はこれに、さらにもう一工夫します。
それは、戻ってきた住民に島津之人と書いた札を配り、
「もし不利益を被る事があれば、書面で島津に報告しなさい。我々が必ず処罰するから」と呼びかけたのです。
これはとても上手いやり方で、ただ帰属すれば安全を保障するよりも何倍も具体的でした。実際、島津氏の統治した地域では、この島津之人札のお陰で、続々と住民が戻り耕作を再開して年貢を納め、城の周辺住民が島津軍と交易し、城の周辺には城下町が形成されていきました。
逆に同じ九州の大名でも大友氏は住民を統治する事に失敗し反乱を起こされています。ここにも詮議を通して、具体的な敵国住民の統治の仕方を考えた島津氏の特徴が反映されているのです。
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