亀甲船とはどんな船?活躍は序盤だけ!欠陥が多い朝鮮水軍の軍艦

2021年8月14日


 

亀甲船の建造に着手させる李舜臣

 

亀甲船(きっこうせん)とは、亀船とも呼ばれ文禄・慶長(けいちょう)(えき)において李氏朝鮮の水軍提督の李舜臣が考案、あるいは改良し日本水軍をしばしば撃退した16世紀当時の軍艦の事です。

 

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しかし、当時の史料で亀甲船について詳しく記した文献はなく、現在復元された亀甲船も不明部分は推測で補って建造されているそうです。そんな伝説に包まれた亀甲船は、実際どんな船だったのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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倭寇対策で建造された亀甲船

亀甲船(朝鮮水軍)

 

一説では李舜臣(りしゅんしん)により建造されたとも伝わる亀甲船ですが、実際には15世紀初期に倭寇対策で建造されたというのが事実のようです。亀甲船は、木造戦艦で、船の表面を堅い板で覆ってドーム状になっていて、それが亀が伏せた形に見えるので亀船・亀甲船と呼ばれました。

 

どうしてこのような特異な形をしているかと言うと、倭寇(わこう)は大勢が小舟で朝鮮水軍の船に近づいて接舷し斬り込みを掛ける戦法を得意としたからです。斬り込みを回避するには、船全体を板で覆い倭寇を船に乗り込めないようにする必要がありました。

 

また倭寇の船を近づけないように、亀甲船には火箭(かせん)も装備され、近寄って来る倭寇に火薬で火矢を飛ばして船を焼き払う事もしていたようです。

 

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李舜臣が亀甲船を復活・改良

李舜臣

 

亀甲船は倭寇の被害が下火になると、忘れ去られていきました。しかし、文禄(ぶんろく)・慶長の役の際に朝鮮水軍の李舜臣が忘れられていた亀甲船に目をつけます。そればかりではなく、李は現在の日本水軍に合わせて亀甲船を改良しました。

 

具体的には、ただ板で覆うだけだった甲板の中央に狭い通路を造り、それ以外は切り立った刃を敷き詰めて並べます。こうして、日本の兵士が迂闊に亀甲船の甲板に踏み込むと串刺しになるように改良しました。

 

過去の亀甲船がスーパーマリオのノコノコだとすると、李舜臣の亀甲船はクッパ大王になったようなイメージですね。また、李舜臣は、それまでの火箭に替え火砲を亀甲船の左右舷側と、船尾と船首に装備し、日本の船に包囲された時には、火砲を一斉射撃して包囲をかいくぐれるように工夫します。

 

また、船首に龍の首の装飾をつけて、その口から火砲を放てるようにしたようです。文禄・慶長の役では李舜臣が建造した五隻の亀甲船が活躍し、秀吉(ひでよし)の朝鮮出兵が終結した後も、続々と新しい亀甲船が建造され各地の水軍に配属されたそうです。

 

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亀甲船の大きさは?

鉄甲船

 

李舜臣が改良した亀甲船は、長さ28m、幅9mであり、日本の主力だった安宅船(あたけぶね)の長さ50m、幅10mに比較すると小さい船です。当時の朝鮮水軍の主力艦である板屋船も、亀甲船と同じ大きさだったという事なので、朝鮮水軍の船は全体的に日本の軍船よりは小さかったようです。

 

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なんと!序盤しか活躍しなかった亀甲船

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

日本水軍をキリキリ舞いさせた軍船として性能と伝説が独り歩きしている亀甲船ですが、実際には慶長の役から文献に登場する事がなくなります。また、文禄の役の頃でも、日本軍が海上決戦を避けて、船に大砲を装備し沿岸の砲台と連携した攻撃をするようになると亀甲船は活躍の場を失っていきました。

 

李舜臣も、1597年漆川梁海戦(しっせんりょうかいせん)で朝鮮水軍が壊滅した後は、再び、亀甲船を建造しなくなります。朝鮮海軍の主力である板屋船に屋根を被せる事で転用できた亀甲船を李舜臣は、どうして建造しなくなったのでしょうか?

 

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相当なスキルがないと操船できない亀甲船

イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍船

 

李舜臣が亀甲船を建造しなくなった理由、それは亀甲船の操船は板屋船よりも難しかったという点にあるようです。亀甲船は天井を板で覆う構造上、視界が極めて狭く、また船体が重いので操船を誤ると転覆するリスクがありました。重量は舵にも影響し進路変更が容易ではありません。

 

そして、密閉した船内で火砲を撃つと、その黒い煙が船内に充満して視界を遮り、乗組員は、しばらく酸欠で苦しむ事になりました。つまり亀甲船は防御力と火力は評価できるものの、操縦性が悪すぎる猪突猛進の軍艦であり、一度、目標を見失うと、視認性の低さから戦場に戻るのは絶望的な船なのです。

 

日本の軍船は、序盤以降は朝鮮水軍の攻撃を避けるようになり、陸上の砲台と協力して、朝鮮の軍船を誘い込んで撃破するようになります。視界が広い日本の軍船であれば亀甲船に近寄らなければ攻撃は回避できました。それこそが、亀甲船が次第に戦果を挙げられなくなった理由でしょう。

 

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現実的な判断で亀甲船建造を断念

朝鮮水軍を率いて日本水軍を撃退する李舜臣

 

漆川梁海戦で壊滅した朝鮮水軍では、有能な将軍と兵士が大勢失われており亀甲船を操縦できる人員を確保する事が難しい状態であり、李舜臣は亀甲船建造を断念したのだと考えられます。

 

(戦争においては)合理的な判断が出来る将軍、李舜臣は、扱いが難しい亀甲船よりも、安定して運用できる板屋船を建造する事がベターだと考えたのでしょう。これもまた、李舜臣の名将たる所以でしょう。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

亀甲船は元々、接近戦を挑んでくる倭寇対策で船全体を密閉した船でした。倭寇の被害が収まったため一時は忘れ去られますが、文禄・慶長の役で朝鮮水軍の提督、李舜臣が板屋船を改良してより防御力と火力を強化した新しい亀甲船を建造します。

 

一時は戦果を挙げた亀甲船ですが視界の狭さと、荷重から来る不安定さ、そして火砲を放つと黒煙が船内に充満する欠点を見抜かれ、次第に活躍できなくなり漆川梁海戦での朝鮮水軍の壊滅を契機に建造されなくなったという事のようです。

 

参考:wikipedhia他

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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