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殺害された郭皇后?
甄夫人の死後、郭皇后は皇后候補に挙がりますが、部下から身分の低さを指摘されて問題になりました。郭皇后も辞退しますが曹丕は強行的に皇后に任命しました。こうして野望を成し遂げた郭皇后でしたが、欠点が1つありました。世継ぎが出来なかったことです。
仕方ないので甄夫人の子である曹叡を育てます。正史『三国志』に注を付けた裴松之が持って来た『魏略』という書物によると曹叡は甄夫人が自殺させられたことを知っていたので、内心ビクビクしながら過ごしていたようです。
一方、郭皇后は男子がいなかったので精一杯の愛情を注いであげました。やがて黄初7年(226年)に曹丕は亡くなり曹叡が即位しました。即位から9年後の青龍3年(235年)に郭皇后はこの世を去りました。52歳の生涯でした。
ただし、これは中立的な歴史書を書くための陳寿の当然の書き方。『魏略』・『漢晋春秋』という書物には、はっきりとは記していませんが曹叡が郭皇后を殺害したような表記になっています。やはり育ててもらっても、自分の母を殺した相手を許すことは出来なかったのでしょうか?
三国志ライター 晃の独り言
曹丕は年上の女性が好みだったのです。まず曹丕の生年は中平4年(187年)でした。結婚した第1夫人の甄夫人は光和5年(183年)、第2夫人の郭皇后は中平元年(184年)の生まれ。いずれも年上でした。
上記のことから曹丕は姉さん女房が好みだったと分かります。年上の女房は金の草履を履いてでも探せという言葉がありますが、曹丕もそのゲン担ぎでもしたのでしょうか?
ちなみに晃は同年・年下を好んでいます!
※参考文献
・高島俊男『三国志 人物縦横断』(初出19994年 後に『三国志きらめく群像』 ちくま文庫2000年に改題)
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