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この記事の目次
張魯との争い
父と兄2人を失った劉璋は、そのまま益州の長官になりました。普通なら三男の劉瑁が後継者になるのが妥当ですが、彼は精神疾患を抱えていたので政治の重圧に耐えれることは不可能と判断されて劉璋に後継者の役割が回ってきたのです。
劉璋が対応に苦労したのは漢中に一大勢力を築いている宗教団体「五斗米道」でした。五斗米道というのは張角が組織した「太平道」と類似した組織です。信者に米を五斗納品させる義務を負わせていたので上記のように呼ばれていました。
教祖の張魯の母は美人であり、真偽は不明ですが劉璋の父の劉焉とは男女の仲だったという説まであります。そのためなのか、劉焉は五斗米道と争うことは避けていました。
ただし、劉璋は益州長官になると部下の龐義を派遣して張魯と争うようになります。しかし、連戦連敗で勝つことはありませんでした。
益州内部分裂(1)龐義とのケンカ
それどころか、劉璋は部下の間にも亀裂が生じます。1人目は龐義。彼は劉璋とは昔から親交のある人物であり、劉璋が長安から脱出する時も子供たちを守ってくれたのでした。つまり、劉璋にとっては恩人でした。帰国後、劉璋は龐義を巴西太守に任命して恩を返します。しかし龐義は権力を笠に着て傲慢な振る舞いが目立つようになりました。
だけど、権力があるのと戦が得意のは話が別。龐義は張魯との戦で連戦連敗!さらに、龐義が張魯に対抗するために兵士を募集していると、龐義が反乱を計画していると訴える人が出ます。上記の事が原因で2人の間に亀裂が生じます。最後は他人から説得された龐義が「お騒がせしました」と謝罪して仲直りします。
益州内部分裂(2)趙韙の反乱
劉璋と龐義は仲直りしますが、どさくさに紛れて反乱を起こした人物がいます。その人物は趙韙。彼は劉焉の時から仕えており、劉璋を益州長官に擁立したのも彼でした。趙韙が反乱を起こした目的は分かっていませんが、おそらく劉璋では劉焉ほどの力は無いと思って見切りをつけたのでしょう。
劉焉は生前、益州で暴れ回った黄巾軍や異民族を鎮圧して自分の私兵としてまとめました。これは「東州兵」と呼ばれています。曹操の「青州兵」と似ています。
だが劉璋が長官になったばかりの頃、思った以上に彼らを制御出来ませんでした。誰だって責任者になったばかりの頃は戸惑う者でしょう。趙韙はその弱点を突いて反乱を起こしました。しかし、東州兵は趙韙に加担せずに劉璋に味方して奮戦。趙韙を討ち取ってしまいます。
この反乱の顛末を記した『英雄記』には詳細なことは何も書かれていません。東州兵なりに思うことがあったのかもしれません。それとも劉璋が東州兵を上手に買収したのでしょうか?何も記されていないので闇の中・・・・・・
張魯の母殺害
建安5年(200年)に五斗米道の張魯は独立を宣言。ここに漢中を勝手に「漢寧」と改称します。怒った劉璋は張魯の母と弟を捕縛して処刑。前述したように張魯の母は劉焉の愛人と推測される存在。いずれは劉璋に対しても政治介入をしてくるのは目に見えています。もしかしたら、この時期には介入していた可能性が高いです。つまり劉璋は彼女に消えて欲しかったのです。
この劉璋による張魯の母と弟の殺害事件により益州は真っ二つ。まるで東西冷戦状態のようになります。建安5年(200年)といえば曹操と袁紹の決戦(官渡の戦い)が行われていましたが、益州でも小さな戦いが行われていたのでした。
三国志ライター 晃の独り言
劉璋の父の劉焉は劉璋の兄の益州長官を継がせるつもりだったと考えられます。しかし、劉範が不慮の死を遂げたことから劉璋に継承権が回ってきました。
緊急事態での継承であったことから、劉璋はおそらく後継者としての政治勉強が十分ではなかったのでしょう。だから、張魯との外交・戦争で苦戦したり自分の部下の制御が上手に出来なかったのでしょう。
『三国志演義』では劉璋=ダメ君主というレッテルを貼っていますが、継承経緯を考えれば仕方ないことだったのかもしれません。
※参考文献
・狩野直禎「後漢末地方豪族の動向―地方分権化と豪族―」(中国中世史研究会編『中国中世史研究』 東海大学出版会 1970年所収)
・満田剛「劉焉政権についてー後漢末期の益州と関中・河西回廊」(『創価大学人文学論集』29 2017年)
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