戦国を統一し豊臣政権を樹立した男、豊臣秀吉。かつて木下藤吉郎と呼ばれた秀吉は、すばしっこく人の心をつかむのが上手いのでサルと呼ばれていたとされます。大河ドラマでは、織田信長にサルと呼ばれているシーンが印象的ですが事実ではなく、実際には信長は秀吉をハゲネズミと呼んでいたそうです。
では、秀吉サル説は後世の脚色かというとそうではなく、織田信長に仕える前、今川の家臣の松下氏に仕えていた少年秀吉は、まさしくサルそのものだったのです。
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キサという少女が見たサルのような少年
謎に包まれていた豊臣秀吉の少年時代が、思いがけず歴史に残る事になったのは、今から460年前、現在の浜松に住んでいたキサという少女のお陰でした。彼女は浜松の前身である引間城主、飯尾豊前守の娘でしたが、ある時、配下の「松下」が異形なる面相の少年を連れてきました。
松下が浜松の町はずれ、曳馬の川辺で拾ったという少年は、垢だらけの白い木綿の着物を着て、人と思えば猿、猿と思えば人と言った感じで、キサが「国はどこ?何者か」と聞くと尾張から来たと言い、幼少のものが遠路なにしにきたと問うと、奉公頼みに来たと答えたそうです。
これは紛れもなく、織田信長に仕える前、今川氏の勢力下の松下氏に仕えていた時代の木下藤吉郎だったのです。このキサという少女は豊臣政権が滅びた後まで生きて80歳近くで没し、その孫が太閤素性記という記録にキサの昔語を記録したのでした。
見世物として連れて来られたサルは愛された
現在の人権感覚で言うと問題あるかも知れませんが、松下が秀吉を連れて来たのは、このサルそっくりの少年に芸をさせる為でした。松下は「御覧あれ」と城内の人々に秀吉を披露し、皮のついた栗を秀吉に与えると、秀吉はサルそっくりの動きで栗の皮を剥いて食べたので、みな大笑いしたと太閤素性記にはあります。
まさしく見世物なのですが、この少年秀吉の強かな所は、自分の容姿が猿に似ている事を利用して、サルを観察しその素振りをよく研究した事です。猿顔の自分が猿の物真似をすれば、必ず受けて人の心を掴めると少年秀吉は冷静に計算していたのですから、少年としては、タダモノではない事が分かります。
ただ放浪していたのではない驚くべき少年
猿の物真似で引間城の人々の心を掴んだ秀吉は、非常に愛され、体を洗い古い小袖を与えられると清潔な身なりになりました。当時の秀吉は16歳、父の遺産であった永楽銭一貫文の一部で尾張清須で木綿着を作って針を入れ、それを売りながら浜松まで来たと答えます。
そう!秀吉は身なりこそ垢だらけでしたが、乞食をしていたわけではないのです。推測ですが、松下にだって自分から近づいて猿真似をし売り込んだかも知れません。
「わたしをお城まで連れて行ってくれませんか?猿の真似をしたら、誰にもひけは取りませんよ」そんな風に松下に取り入った可能性だってあります。後に天下を手中にする末怖ろしい少年の素質は、この頃からあったのでしょう。
同僚に憎まれ足を引っ張られる秀吉
松下は少年秀吉を最初、草履取りとして多くの小者と同じように扱っていましたが、試しに側近に抜擢してみると、これが最強付き人で、何一つ主人の意向を違える事がなく完璧な仕事ぶりだったそうです。
松下は満足し、秀吉を納戸係に任命して家の品物の出納を任せました。この間まで乞食同然だった秀吉としては大抜擢です。しかし、急速な出世は同じ草履取りの憎しみを買いました。彼らは「サルの癖に」と嫉妬心全開で納戸からモノを盗み、それを秀吉のせいにして、散々にイジメました。
ま、こんな連中は昔からずっといて、数を頼み醜い嫉妬心を向上心に昇華させる事も出来ず、ひたすらに己の弱さを正当化して、あいつが余所者だからだ、態度が悪いからだ!謝らせろ!居られなくしてやると報復心をエスカレートさせるものです。しょーもないですね。こうして浜松に地盤をもたない秀吉は仕事が出来ないように追い詰められていきました。
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