三国志の特徴は、両雄並び立たずどころか、3つの勢力が違和感なく並立し、しかもそれぞれが天子を自称して、半世紀も頑張っていた点です。
中国の歴史には群雄割拠状態という無数の実力者が湧きだしている時代や、楚漢戦争のように二人の英雄が雌雄を決する時代はよくありますが、三つ巴が長期間続くケースは珍しく、だからこそ長年読まれ続ける物語になったのでしょう。
でも、その中で、もし劉備が皇帝に即位しなかったら蜀はどうなったのでしょうか?
※この記事にはかなりのおふざけが含まれています。
この記事の目次
え?死んでなかったの・・献帝生存に劉備困惑
西暦220年、曹丕は献帝に禅譲を迫り、ここに前後併せて400年続いた漢は滅びました。洛陽から遠く離れた成都では、誰が流したのか献帝死亡説などという不謹慎な流言が流れ、これを真に受けた軍師将軍諸葛亮は、群臣の先頭に立ち劉備に皇帝に即位するように要請します。
劉備は涙を流し、遂に献帝を救えなかった事を悔いつつも、もはや漢室を再興できるのは、うすい、うっすい漢の末裔である自分しかいないと我が身を奮い立たせ、成都の武担の南で即位の儀式を行いました。
ところが、間もなく儀式が滞りなく終わろうかというその時、許からの使者が顔を出したのです。使者は3年ばかり前に劉備が許の献帝に提出していた上表文の返書を持ってきて、いました。
「いやー、秦嶺山脈は難所だなや、すーっかり遅れちまって申し訳ねっだ。こっれ、陛下からの漢中王即位の上表の返事だけんども、左将軍・宜城亭侯の印綬は確かに返してもらったってよ。そっから漢中王に即位すんのも苦しゅうないそんだ」
なぜだか、ひどく訛っている使者は返書を渡すと、さっさと帰ってしまいました。諸葛亮も劉備も唖然ぼーぜん、しかし、死んだ筈の献帝から返書が来た以上、これ以上皇帝即位の儀式を行うわけにはいきません。こうして、劉備の地位は漢中王という宙ぶらりんのままになりました。
窮地に陥った劉備は思わず恨み節
劉備は漢中王のままでしたが、王でも藩国として国を運営する為に必要な文武百官を置けるので不自由はありません。しかし、自身が王なので息子達を王に封じる事は出来ず、公として各地に派遣し封地を治めさせる事になります。
しかし、どうにもならないのは、魏王朝とのグレードの差でした。あちらは天子であるのに対し、こちらはあくまで王、しかも滅んでしまった後漢が承認した王ですから、さっぱり威厳がありません。文帝曹丕は自分の息子達を王に封じて各地に派遣しており、劉備は、このような曹丕の息子達と同列という立場になりました。
劉備は宙ぶらりんな自分の地位に苛立ちます。
ああ先帝陛下、どうしてすぱっと病死して下さらなんだか、、じゃなきゃ律儀に使者なんか立てないでくれたら、今頃ちゃんと漢帝として即位できていたのにんのにん・・・
等と今や山陽公として楽隠居している献帝(年下)に恨み節も湧いてくるというものです。
諸葛孔明のウルトラC華陽帝として即位
しかし、ふさぎこんでいる劉備と違い諸葛亮丞相は、もっとアグレッシブでした。漢がダメなら、かつては中華とは別文明を起こしていた古蜀に着目します。
かつて古蜀は華陽と称され、紂王討伐にも参加し、周王室を奉じていました。中原から遠く春秋の会盟には参加できませんでしたが、周王室が衰えると最初に王を自称し、蜀王杜宇の時代には帝を自称し、その後は開明氏が代々蜀王を名乗っていましたが、紀元前316年に秦の司馬錯の討伐を受けて滅んでいたのです。
「漢の帝は無理でも、かつて暴虐な秦に滅ぼされた華陽国を受け継いだとして華陽帝として即位するのはありです。恐らく益州には開明氏か蜀王杜宇の末裔たちがいる筈ですから、その血を引く娘を漢中王も、劉禅様も側室となされば、血筋は繋がります」
・・・・コメちゃん、、それはちょっと無理やりすぎやしねえか?
劉備はそう思わないでもありませんでしたが、徹夜で古竹簡を漁り、鼻息荒く目を血走らせている忠臣、孔明を前には言えませんでした。かくして、劉備は蜀帝ならぬ華陽帝として、536年ぶりに蜀の地で即位しました。
【次のページに続きます】