2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する朝倉義景は、織田信長と対立し2回も信長包囲網を構築。しかしいずれも失敗に終わり、最後は信長に敗れ去ります。そんな義景の生涯をみながら、なぜ信長包囲網に失敗したのか検証します。
この記事の目次
- 1ページ目
- 戦国大名朝倉氏の出自。偉大なる父の待望の嫡男として義景誕生
- 幕府からも期待され「義」の名をもらうも、父に続き大黒柱・宗滴が死去
- 兄弟や子に恵まれぬも越前一国を守る日々
- 13代将軍義輝の死。そして早い段階での情報収集と介入
- 2ページ目
- 義秋を越前に受け入れて、加賀一向一揆との和解を果たす
- 義秋(義昭)の上洛要請に応じられない、義景の影を落とす理由とは
- 織田信長のスピーディな動きで義昭の上洛。義景の自尊心が傷つき信長との戦いに発展
- 最初の信長包囲網も中途半端に和解
- 比叡山を焼き討ちする信長。消極的な義景との違い
- 3ページ目
- 武田信玄の上洛による、2回目の信長包囲網も義景が自ら撤退して瓦解
- 浅井の援軍に向かうも途中で撤退。そこを信長に突かれ壊滅に近い状況に
- 親族にまで裏切られた義景の哀れな最期
- 戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国大名朝倉氏の出自。偉大なる父の待望の嫡男として義景誕生
1533(天文2)年、後に朝倉家11代で最後の当主となる朝倉義景が誕生しました。父の名前は10代宗淳・孝景です。兵庫県の但馬が発祥の朝倉氏のうち、最も隆盛を持ったのが越前朝倉氏。南北朝時代に足利氏の一族斯波氏に仕えたところから始まります。
7代営林・孝景(10代と同じ名前)の時代に戦国大名として頭角を現し、一乗谷に城を構えました。また母は若狭の戦国大名武田元信(または武田元光)の娘です。中々子宝に恵まれなかった孝景が、40歳の時にようやく生まれた義景の幼名は長夜叉。ただし義景の幼少時代に関する資料はほとんど残っておりません。
1548(天文17)年、義景が15歳の時に父孝景が55歳で死去し、そのまま義景が家督を継ぎます。父・孝景は名将と伝わり、しばしば周辺国への出兵をおこない、越前の国を守りました。特に代々の宿敵・加賀一向一揆との和睦を達成した業績があげられます。
ちなみに一向一揆とは浄土真宗の寺院が大名化した組織で、宗教を盾に自治国を築いた勢力。織田信長と石山本願寺、徳川家康と三河一向一揆といった戦いが有名で、日本全国を統一するほどの武将も手を焼く存在。そんな勢力と和睦できたため越前が安定し、多くの公家が戦を避けて京都から来ました。結果的に越前に京風文化が花開きます。
幕府からも期待され「義」の名をもらうも、父に続き大黒柱・宗滴が死去
父の死により家督を継ことになった義景。当初は延景と名乗りました。当面は7代当主晩年の子・朝倉宗滴が政務をとります。宗滴は9代貞景の時代から参謀役として朝倉家当主を支える存在。彼の活躍は加賀の一向一揆との戦いをはじめ、幕府の命令で若狭への出兵や近江の大名浅井・六角両氏の調停役。あるいは12代将軍足利義晴の要請で三好氏らと戦うなど、室町幕府とも親しい関係を保ちました。そして越前朝倉の安定した時代を陰で築いた人物でもあります。そのため公家たちも京都から越前に多く来たほど。
1552(天文21)年13代将軍義輝から若き当主・延景に、歴代足利将軍が名乗る「義」を拝命します。それに加えて左衛門督の地位を与えられ、歴代朝倉家の中で最も高い地位を得ました。それは宗滴をはじめ父・孝景が将軍側近の御供衆・相伴衆に列していたこと、義景の正室に幕府の管領、(将軍を補佐する幕府のナンバー2)の細川晴元の娘ということもありました。
こうして義景は、衰退著しい幕府にとって重要な大名のひとつとしてのポジションを得ます。しかしその3年後、1555(弘治元)年に宗滴が死去。朝倉家の大黒柱を失います。
兄弟や子に恵まれぬも越前一国を守る日々
宗滴の死後、当主義景が政務をとるようになります。しかし若き当主は、参謀役を失い十分な政務が取りづらくなりました。これは宗滴があまりにも優秀だったために、その後を継げる有能な家臣がいないという事態につながります。
さらに父・孝景には義景しか子がいませんでした。これは中国の毛利家や甲斐の武田家のように相談できる兄弟がいないという状態。義景が気のおける相手がいないまま孤独の中で政務をとるしかありません。ただ従妹にあたる父の弟・景高の子景鏡と一族の縁戚・朝倉景隆がいました。そのために彼らが総大将として加賀の一向一揆と戦いを繰り広げ、国を脅かす存在を駆除。国内が大きく乱れることはありません。
ただもうひとつ義景自身の問題として子に中々恵まれませんでした。細川家から来た正室が産後に死去。二番目の正室として近衛家から来た娘も子宝に恵まれません。ただ当時大名はいくらでも側室が持てた時代。義景は重臣の娘・小宰相を寵愛し、阿君丸を産みました。しかし幼くして死去。もう一人の側室・小少将からも愛王丸という子が生まれましたが、この子も長くはありませんでした。それでも越前の国をしっかり守り切った義景。しかし戦国の世の中は、そんな義景を翻弄する方向に向かってしまいます。
13代将軍義輝の死。そして早い段階での情報収集と介入
1555(弘治元)年5月に、義景が名実と共に当主として政務を執り行うようになってからは、隣国若狭の大名・武田義統の統率力の衰えに乗じて何度か出兵したり、加賀一向一揆への出兵などをしたりしています。しかし10年程度は大きな動きもなく比較的安定していたものと推測。しかし1565(永禄8)年から状況が大きく変わります。
6月に室町幕府13代将軍・足利義輝が、三好三人衆と松永久通(松永久秀の子)らの攻撃を受け、自害して果てます。いわゆる永禄の変と呼ばれる事件で、殺害した首謀者たちは14代将軍の地位に、11代将軍・足利義澄の孫・足利義栄の擁立を画策しますが、それは3年後の話。
この時義景は早い段階で事件を知ることになります。義輝の弟は後の将軍義昭ですが、この時には覚慶という名前の僧でした。その覚慶が奈良を脱出して近江の六角氏の元に移ります。その行動に朝倉義景が干渉したと、義輝の叔父大覚寺義俊より、上杉謙信宛ての書状にしたためられていました。また事件翌日には武田義統からの書状で知ったとも記録されます。また義輝の家臣だった細川藤孝・和田惟政・米田求政たちのいずれかと連絡を取り合って、義昭を近江に逃がしたとも。父や宗滴が幕府とのつながりが深く、義輝から「義」の名前をもらったことから、介入せざるを得なかったのかもしれません。
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